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東京地方裁判所 昭和59年(ワ)2775号 判決 1987年5月27日

原告

水津滿

原告

菅野豊太郎

原告

田中正明

原告

畝本正己

原告

西坂中

原告

木ノ下甫

原告

伊勢貞一

以上七名訴訟代理人弁護士

浅井利一

成田健治

鈴木忠一

武川襄

被告

右代表者法務大臣

遠藤要

右指定代理人

田中信義外

九名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告らに対し、それぞれ、各金一〇〇万円及びこれに対する昭和五九年三月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の経歴と本件教科書の記述との関係

(一) 原告水津滿

原告水津滿(以下「原告水津」という。)は、昭和一二年陸軍軍人となり、昭和一九年九月以降昭和二〇年八月二〇日まで陸軍第五方面軍第九一師団(北千島防衛担当)の作戦参謀として勤務し、昭和二〇年八月一八日シュムシュ島に対するソ連陸海空部隊の上陸、侵攻に対しては師団作戦参謀として応戦に従事したが、その後の千島所在日本軍の武装解除に伴い、同年一二月初旬以降ソ連によつてシベリアに抑留されて強制労働に服し、昭和二五年二月帰国した。

そして、昭和二七年ころから現在に至るまで、同原告は、いわゆる「北方領土」(後述のいわゆる「北方四島」を指す。以下単に「北方領土」という。)問題研究家ないしソ連戦史研究家として、また、北方領土回復運動団体である北方協会の役員として、北方領土問題に関する著述、講演、寄稿等の活動を通じて、その早期返還を求める運動に従事してきた。

(二) 原告菅野豊太郎

原告菅野豊太郎(以下「原告菅野」という。)は、昭和一六年陸軍に応召し、昭和一八年八月一日以降昭和二〇年八月二〇日まで前記第五方面第九一師団(北千島防衛担当)の一兵士として勤務し、前記シュムシュ島に対するソ連陸海空軍の上陸、侵攻に対する応戦にも参加したが、その後同年一二月初旬ころ以降ソ連によつてシベリアに抑留されて強制労働に服し、昭和二三年七月帰国した。

そして、右帰国後現在に至るまで、同原告は、北方領土回復運動団体である北方協会及びキスカ会に所属し、北方領土回復運動に従事してきた。

(三) 原告田中正明

原告田中正明(以下「原告田中」という。)は、昭和八年四月から大亜細亜協会に勤務し、昭和一一年松井石根陸軍大将(以下「松井大将」という。)が同協会会長に就任するのと同時に会長秘書となり、以後松井大将の中支遠征中を除き昭和一六年五月まで同大将の秘書を勤めた。

松井大将は、昭和一二年八月一五日予備役から現役に復帰して中支遠征に参加し、同年一二月の中支派遣軍による南京攻略戦及びこれに引き続く南京占領に際しては、同派遣軍司令官としてこれを遂行した総指揮官であつたが、戦後の極東軍事裁判においては、いわゆる「南京虐殺事件」(「南京大虐殺」あるいは「南京事件」ともいう。以下単に「南京虐殺事件」という。)の最高責任者として刑死させられるに至つた人物である。

原告田中は、昭和一三年二月二六日松井大将が再び予備役に編入され、大亜細亜協会の会長に復帰してからは、再び会長秘書として勤務し、その間、同年八月には同大将の命により従軍記者として南京の治安状況の視察を兼ねて漢口攻略戦に参加した(同年一〇月帰国)経験も有する。

戦後、特に極東軍事裁判における「南京虐殺事件」に対する責任を理由とする松井大将の刑死を契機として、同原告は、同大将に対する敬慕の念から、右南京占領当時の状況に関する資料を調査し、「南京虐殺事件」が無根の事実であるとの確信を抱くに至り、以後現在に至るまで、大学講師として、また、歴史研究家として、「南京虐殺事件」が無根の事実である旨の著述、講演、雑誌寄稿等の活動に従事してきた。

(四) 原告畝本正己

原告畝本正己(以下「原告畝本」という。)は、昭和九年陸軍軍人となり、昭和一二年九月以降昭和一三年八月まで北支及び中支の戦闘に参加し、その間、昭和一二年一二月の南京攻略戦及びこれに引き続く南京占領に際しては、第一〇軍第六師団所属の独立軽装甲車隊小隊長としてこれに参加し、その後翌昭和一三年四月まで南京城内に駐留した。そして昭和一五年に、同原告は、右戦闘の際の功により、勲四等旭日章の叙勲を受けている。

戦後、同原告は、昭和三一年から昭和三三年までは陸上自衛隊幹部学校教官として、昭和三七年から昭和四一年までは防衛大学校戦史担当教授として、南京攻略戦の状況等を含めた日中戦争全般につき研究及び講義を行い、さらに、昭和五七年ころからは、南京攻略戦参加の各部隊の隊員名簿を調査して約一四〇人の参加者の証言を集め、自らの戦闘及び駐留時の体験に照らしても、「南京虐殺事件」のごとき事実は全く存在しないことを確信するに至り、以後現在に至るまで、歴史研究家として、「南京虐殺事件」が無根の事実である旨の著述、講演、寄稿等の活動に従事してきた。

(五) 原告西坂中

原告西坂中(以下「原告西坂」という。)は、昭和一二年陸軍に応召し、同年一二月九日以降上海派遣軍第三六連隊脇坂部隊所属員(当時上等兵)として南京攻略戦に参加し、同月一二日南京城東側光華門付近の戦闘を経て、同月一三日右光華門から南京城に入城し、その後翌昭和一三年四月まで南京に駐留した。同原告所属部隊の右入城は、日本軍としてのいわゆる「一番乗り」として報道され、その後昭和一五年に、同原告は、右戦闘の際の功による功七級金鵄勲章及び勲七等青色桐葉章の叙勲を受けている。

同原告は、自らの戦闘及び駐留時の体験並びにその敬愛する松井大将の人柄にかんがみ、南京占領時に「南京虐殺事件」と称されるような虐殺が行われた事実は全く存在しなかつたことを確信しているものである。

(六) 原告木ノ下甫

原告木ノ下甫(以下「原告木ノ下」という。)は、昭和四年海軍軍人となり、日中戦争の前後にわたつて、第一次、第二次上海事変、南京攻略戦(陸軍中支派遣軍に対する支援)など主として中支方面の戦闘に参加し、昭和一九年に勲三等瑞宝章の授与を受けた。また、同原告は、太平洋戦争勃発後も各方面の戦闘に参加し、特に昭和一九年三月以降は、第二南遣艦隊参謀としてインドネシア方面の防衛作戦に参加し、終戦後はインドネシア独立を支援し、昭和二二年五月同地区から帰国した。

右帰国後現在に至るまで、同原告は、インドネシア独立史研究家として、また、インドネシア戦参加者の戦友会である二南遣会、ジャワ会その他各種戦友会団体等の役員として、多数の著述、講演、寄稿等を通じて、満州事変以降の前記一連の日本の軍事行動が自国の権益保護及び安全保障のための自衛行為であり、東アジア諸民族の独立の契機となつた旨を主張する活動に従事してきた。

(七) 原告伊勢貞一

原告伊勢貞一(以下「原告伊勢」という。)は、昭和四年海軍軍人となり、原告木ノ下と同様、第一次、第二次上海事変、南京攻略戦など主として中支方面の戦闘に参加し、その間の戦功により昭和一五年に勲三等瑞宝章の叙勲を受け、太平洋戦争勃発後、特に昭和二〇年一月以降は第二南遣艦隊参謀としてインドネシア方面の防衛作戦に参加し、終戦後はインドネシア独立を支援し、昭和二一年八月同地区から帰国した。

右帰国後現在に至るまで、同原告は、前記二南遣会、ジャワ会その他各種戦友会等の諸団体の役員として、前記原告木ノ下と同様の活動に従事してきた。

2  教科書検定の意義及び手続

(一) 意義

学校教育法二一条一項は、「小学校においては、文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。」と規定し、この規定は、同法四〇条で中学校に、五一条で高等学校に、七六条で盲学校、聾学校及び養護学校(以下「盲学校等」という。)にそれぞれ準用されている。

右の学校教育法の諸規定は、小学校、中学校及び高等学校並びに盲学校等において使用する教科用図書(以下「教科書」という。教科書の発行に関する臨時措置法二条一項参照。)は、原則として文部大臣の検定を経たいわゆる検定済教科書か、あるいは文部省が著作の名義を有する国定教科書でなければならないことを定めると同時に、教科書検定は文部大臣においてこれを行うべきことを定めたものであり、これによつて、文部大臣に教科書検定の権限を付与し、かつ、その義務を課している。

そして、検定には、新たに編集された図書について行う新規検定と、検定を経た図書の改善を図るために加えられた個々の改訂箇所について行う改訂検定とがある(教科用図書検定規則(昭和五二年文部省令第三二号。以下「検定規則」という。)四条)。

(二) 検定手続

(1) 検定の申請と原稿本審査

文部大臣は、図書の著作者又は発行者がその検定を文部大臣に申請する(検定規則六条)と、右申請に係る図書の原稿本について、教科用として適切であるかどうかを教科用図書検定調査審議会(以下「検定審議会」という。文部省設置法二七条、検定審議会令参照。)に諮問し、その答申に基づいて、原稿本審査合格(以下単に「合格」という。)、修正意見を付された原稿本審査合格(以下「条件付合格」という。)又は検定審査不合格(以下単に「不合格」という。)の決定を行い、その旨を申請者に通知する(検定規則九条)。

(2) 内閣本審査等

条件付合格の通知を受けた申請者に対しては、修正意見に対する意見の申立て(検定規則一〇条)ないし内閣本の提出及び審査(検定規則一三条)の各手続が、不合格の決定を受けるべき申請者に対しては、不合格理由の事前通知及び反論の聴取(検定規則一一条)ないし不合格図書の再申請(検定規則一二条)の各手続が保障されている。

(3) 見本本審査及び検定決定の通知

修正意見を付されていない無条件の合格の通知を受けた申請者は、直ちに、また、修正意見を付された条件付合格の通知を受けた申請者は、その作成及び提出に係る内閣本について修正意見に従つた修正が行われたものと認める旨の通知を受けたとき、いずれも、図書として完成した見本本を作成して文部大臣に提出する(検定規則一四条一項)。

文部大臣は、右見本本について審査し、教科書として必要な要件を備え完成されたと認めたときは、当該教科書の検定を決定し、その旨を申請者に通知する(同条二項)。

(4) 検定済教科書の告示

文部大臣は、右各段階の審査を経て最終的に合格した教科書については、検定済教科書として、その名称、判型、ページ数、目的とする学校及び教科の種類、検定の年月日、著作者の氏名並びに発行者の氏名及び住所を官報に告示する(検定規則二〇条)。

3  本件教科書に対する検定処分

文部大臣は、別紙検定済教科書目録(以下「別紙目録」という。)(一)記載の中学校用及び高等学校用の各社会科教科書(以下「本件教科書」という。)について、前記法定の教科書検定手続を経由し、同目録(一)の「検定年月日」欄及び「改訂年月日」欄記載のとおり、昭和五五年三月三一日付け又は昭和五八年三月三一日付け新規検定及び同日付け改訂検定の各決定を行つた。

同目録(一)に掲げる本件教科書の歴史に関する記述中には、それぞれ、同目録(二)記載の各指摘部分の記述(「北方領土」関係、「南京虐殺事件」関係及び「侵略」関係の三区分に大別される。)が含まれている。

同目録(二)の「目録番号」欄記載の各番号は、同目録(一)の各教科書の目録番号を引用するものであり、また、同目録(二)の「区分」欄記載の①、②及び③の各番号は、各記述の区分について、それぞれ、「北方領土」関係(①)、「南京虐殺事件」関係(②)及び「侵略」関係(③)の記述部分であることを示すものである。

4  本件検定処分の違法性

(一) 検定基準の意義及び内容

(1) 意義

検定規則三条は、「教科用図書の検定の基準は、文部大臣が別に公示する教科用図書検定基準の定めるところによる。」と規定している。これを受けて、文部大臣は、検定の基準として、義務教育諸学校教科用図書検定基準(昭和五二年文部省告示第一八三号。以下「義務教育検定基準」という。)及び高等学校教科用図書検定基準(昭和五四年文部省告示第一三四号。以下「高等学校検定基準」という。)を定め、これらを公示しているが、その内容及び構成は、両検定基準ともほぼ同様である。

(2) 内容

右両検定基準の要求する条件として、全教科書に共通して具備すべき基本条件と、各教科別の教科書として具備すべき必要条件とがある。

(ア) 基本条件

基本条件は、教科書としての本質から要請される根本的な条件であり、申請に係る図書の内容にそのうち一項目でも合致しないものがある場合には、教科書として絶対的に不適格とされる性質のものである。

そして、その内容としては、両検定基準とも、(ⅰ)「教育の目的との一致」、(ⅱ)「教科の目標との一致」、(ⅲ)「取扱い方の公正」の三項目を掲げている。

(イ) 必要条件

また、必要条件は、各教科ごとに定められ、その各項目に照らして当該図書の内容の適切さを審査することが要求されているもので、これを欠くときは、基本条件のように絶対的に不適格とはならないが、欠陥のある教科書とされる性質のものである。

そして、社会科の必要条件のうち教科書の内容に関するものとしては、両検定基準とも、「教科用図書の内容とその扱い」として、(ⅰ)「範囲」、(ⅱ)「程度」、(ⅲ)「選択・扱い」、(ⅳ)「組織・配列・分量」の四項目を、また、「教科用図書の内容の記述」として、(ⅰ)「正確性」、(ⅱ)「表記・表現」の二項目をそれぞれ掲げている。

(二) 教科書検定の覊束裁量行為性

(1) 教科書の検定は、教科書が諸学校において教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であることにかんがみ、当該図書が、前記義務教育検定基準ないし高等学校検定基準に掲げる基本条件の各項目を満たしているか否か、また、必要条件の各項目に照らして適切であるか否かを審査するものである(両検定基準各第一章「総則」)。そして、検定に当たつては文部大臣に一定の範囲内で裁量の余地があることは事実である。したがつて、検定の決定は、講学上の行政行為の中でも、裁量行為といわれるものに属する。

(2) 裁量行為には、講学上、目的裁量(便宜裁量)と法規裁量(覊束裁量)とがあり、前者を誤る行政行為については、不当の問題を生ずるだけで司法審査に服しないと解されているが、後者を誤る行政行為は、違法行為であつて、司法審査の対象となる。

(3) 教科書検定においては、前記のとおり、前記各検定基準の必要条件の各項目については、これに照らして適切か否かを審査するものであるから、文部大臣に相応の裁量の余地があるが、基本条件の各項目については、これを満たすことが絶対条件であるから、裁量の余地は少ない。そして、右各検定基準は、文部省によつて広く公示された基準である。

また、基本条件として掲げられている「教育の目的との一致」、「教科の目標との一致」及び「取扱い方の公正」という各項目は、条理上も当然の基準であるし、社会科の必要条件の各項目、特に内容の記述に関する正確性の項に掲げる各項目は、社会科の教科書として論理的、必然的に不可欠な項目である。

(4) したがつて、教科書検定は、裁量行為の中でも講学上の覊束裁量に属する行政行為である。検定規則文部省令であり、前記各検定基準は文部省告示であつて、いずれも法律上の規則ではないからといつて、文部大臣の便宜裁量に属するものとはいえない。けだし、右各検定基準は、前記のとおり、広く公示されたものであり、その内容も当然の条理ないし論理的、必然的に不可欠な項目を掲げるものだからである。

したがつて、教科書検定において文部大臣が右各検定基準によつて規制された裁量の範囲を逸脱すれば、かかる検定処分は、違法行為として司法審査の対象となるというべきである。

(三) 重視すべき検定基準と本件検定処分の違法性

(1) 重視すべき検定基準

検定基準の内容は前記のとおり多岐にわたるが、社会科教科書のうち歴史に関する記述部分については、以下に摘示する各条件(これらについては、前記両検定基準ともその内容は全く同一である。)は特に重要である。

(ア) 基本条件

「取扱い方の公正」

政治や宗教について、その取扱い方が公正であること。特定の政党や宗派又はその主義や信条に偏つたり、それらを非難したりしていないこと(両検定基準各第二章の三「取扱い方の公正」)。

(イ) 社会科の必要条件

(ⅰ) 「全体の調和」

全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調し過ぎているところはないこと(両検定基準各第三章第二節第一、「教科用図書の内容とその扱い」三「選択・扱い」(4))。

(ⅱ) 「正確性」

誤りや不正確なところはないこと(両検定基準各第三章第二節第一、「教科用図書の内容の記述」一「正確性」の前文及び(1))。

(ⅲ) 「非偏向性」

一面的な見解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述していたりするところはないこと(前同一「正確性」の前文及び(3))。

(2) 審査に当たつての留意点

そして、以上の諸条件についての審査に当たつては、特に次の諸点に留意することが重要である。

(ア) 基本条件(「取扱い方の公正」)について

歴史の記述、なかでも政治、宗教等の著作者の見解が顕著に異なる分野の記述に関しては、右の条件は特に重視する必要がある。

(イ) 社会科の必要条件について

(ⅰ) 「全体の調和」について

歴史の記述においては、当該記述の内容自体は同一であつても、他の記述との関連、対比によつては、全体としてはある種の見解のみが特に強調されることになるという結果を生ずるおそれがあり、したがつて、記述全体としての扱いに調和がとれていることが必要である。

(ⅱ) 「正確性」について

右「正確性」の条件は、歴史の記述においては特に重要である。けだし、歴史の記述は事実に基づかなければ無価値であるし、記述の仕方、措辞の配列にも細心の注意が必要であつて、かかる配慮がされない場合にはそれだけで事実と異なる印象を与える結果になることもあるからである。

(ⅲ) 「非偏向性」について

前記「非偏向性」の条件、すなわち一面的見解だけを十分な配慮なく取り上げたり、未確定な時事的事象について断定的に記述したりすることを避けるという配慮は、現代の歴史の記述については特に重要である。けだし、我が国では戦後、歴史、社会、政治等に関して諸家の見解が顕著に対立しており、仮にその一方に偏すれば、必ず他方からは一面的な見解であるとか、断定的な見解であるというような批判が起こることになるからである。

(3) 本件検定処分の違法性

しかるに、本件教科書の記載のうち、別紙目録(二)記載の各摘示部分の記述は、以下(四)ないし(六)において詳説するとおり、いずれも、親ソ、反米ないし、阿中、反日とでも称すべきものであつて、前記「取扱い方の公正」の基本条件を満たしたものではなく、また、前記「全体の調和」、「正確性」及び「非偏向性」の各必要条件に照らしても適切なものではない。

すなわち、「北方領土」問題に関しては、親ソ、反米及び反日の姿勢の結果、ソ連が不法な軍事占領を行つたことは全く明らかにされず、あたかも右占領が正当な行為であるかのごとく記述されており、また、ソ連の右不法な占領の結果数万人の日本人が不当にシベリアに抑留されて苛酷な強制労働に服したという事実は、到底うかがうことはできない。

また、「南京虐殺事件」及び「侵略」関係については、阿中、反日ともいうべき記述の結果、当該戦闘に関係した者の行為は、虐殺又は侵略という犯罪行為と評価され、関与した者の善意、努力及び名誉は全く無視されている。

したがつて、かかる検定基準を逸脱した記述部分を含む本件教科書に対する文部大臣の審査合格の決定及びこれに基づく本件検定処分は、検定基準によつて規制された文部大臣の裁量の範囲を著しく逸脱したものであつて、違法である。

以下、本件教科書の各記述について、「北方領土」関係、「南京虐殺事件」関係及び「侵略」関係の三区分ごとに、検定基準違反の具体的内容を詳説する。

(四) 「北方領土」関係

(1) 本件教科書の記述

本件教科書には、左記の島々に関連して、別紙目録(二)の区分①に指摘する各記述がある。

(ア) 千島列島

北は、シュムシュ(占守)島からウルップ(得撫)島、エトロフ(択捉)島を経て、ハボマイ(歯舞)諸島に至る列島に対する日本国における呼称であつて、後記のザ・クリル・アイランズと北方四島を含むものである。

(イ) ザ・クリル・アイランズ

右千島列島のうち、シュムシュ(占守)島からウルップ(得撫)島までの諸島に対する、ソ連、アメリカ等における呼称である。エトロフ海峡(ウルップとエトロフの間)が境界である。

(ウ) 「北方四島」(「北方領土」)

エトロフ(択捉)島、クナシリ(国後)島、シコタン(色丹)島及びハボマイ(歯舞)諸島をいう。

(2) 背景事実

本件教科書の別紙目録(二)の区分①の各記述部分に記された期間におけるザ・クリル・アイランズ及び北方四島に関連する国際的事実及びその内容は、次のとおりである。

(ア) 日露通好条約(下田条約) 一八五五年(安政元年)

(ⅰ) エトロフ島以南を日本領、ウルップ島以北のザ・クリル・アイランズをロシア領とし、日露の国境をエトロフ海峡とする。

(ⅱ) 樺太については、界を分かたず従来のとおりとする。

(イ) 樺太千島交換条約 一八七五年(明治八年)

日本は樺太をロシアに譲り、ザ・クリル・アイランズを譲り受け、日露の国境はシュムシュ海峡(占守海峡)とする。

(ウ) 日露講和条約(ポーツマス条約) 一九〇五年(明治三八年)

ロシアは、南樺太(北緯五〇度以南)を日本に譲渡する。

(エ) 日ソ基本条約 一九二五年(大正一四年)

ソビエト社会主義共和国連邦は、ポーツマス条約が完全に効力を存続することを約する。

(オ) 日ソ中立条約 一九四一年(昭和一六年)四月

日ソ相互の領土保全、不可侵。日ソ両国のうち一国が第三国と戦争状態に入つたときは、他の一国は中立を守る。有効期間は五年間(一九四六年(昭和二一年)四月まで)とする。

(カ) カイロ宣言 一九四三年(昭和一八年)一一月

アメリカ、中華民国及びイギリスの各元首がカイロに会して発した一般声明のうち、日本の領土に関するものは、次のとおりである。

「同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。

同盟国の目的は、一九一四年の第一次世界戦争の開始以後に日本が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本からはく奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。

日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される。」

(注 ザ・クリル・アイランズは、明治八年の樺太千島交換条約によつて日本領になつたものであるから、右はく奪、返還又は駆逐の対象地域には該当しない。)

(キ) ヤルタ密約 一九四五年(昭和二〇年)二月

一九四六年(昭和二一年)公表

米英ソ三国は、ソ連の対日参戦の代償として、次のとおりの秘密協定を結んだ。

(ⅰ) 樺太の南部及び隣接する島はソ連に返還し(二項(イ))、

(ⅱ) ザ・クリル・アイランズはソ連に引き渡す(三項)。

(注 ヤルタ協定は、米英ソ三国の秘密協定であつて、日本は関与していないから、領土の移動の根拠にはなり得ない。また前記(1)(イ)に述べたとおり、ザ・クリル・アイランズは、千島列島のうち北方四島を除く部分である。)

(ク) 日ソ中立条約の破棄通告 一九四五年(昭和二〇年)四月

(注 右通告によつても一九四六年四月までの有効期間は変更されない。したがつて同年八月のソ連の対日参戦は本中立条約に違反する不法な行為となる。)

(ケ) ポツダム宣言受諾 一九四五年(昭和二〇年)八月一四日

ポツダム宣言は、日本の領土に関しては、

「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等(米英中三国)の決定する諸小島に局限せらるべし。」(八項)

としている。

(注 右諸小島には千島列島を含むというのが、右宣言を受諾した日本及びこれを起案したアメリカの理解である。)

(コ) ソ連による千島列島侵攻作戦 一九四五年(昭和二〇年)八月

ソ連は、日本のポツダム宣言受諾後、次の経過をもつて、千島列島を攻撃、占領した。

(ⅰ) 一九四五年(昭和二〇年)八月一五日午後、カムチャッカ半島のペトロパウロフスクに集結した陸、海、空軍の連合部隊に命じ、同月一八日、ザ・クリル・アイランズ最北端シュムシュ島に対する奇襲上陸作戦を開始し、激戦の後占領。

(ⅱ) 続いて同月三一日までにザ・クリル・アイランズ南端ウルップ島までを占領。

(ⅲ) また、別の沿海州駐留の部隊をもつて、同月二九日から同年九月三日の間に、北方四島を占領した。

(注 右攻撃及び占領は、日ソ中立条約の効力有効期間中に行われ、また、領土不拡張を原則とするカイロ宣言を継承するポツダム宣言を受諾した日本に対して行われたものであつて、国際法に違反する不法な行為である。)

(サ) 樺太、ザ・クリル・アイランズ及び北方四島をソ連領に編入(ソ連国内法) 一九四六年(昭和二一年)二月

(注 ソ連が国内法によつて領土宣言をしたからといつて、日本の領土がソ連の領土になることはない。国際法上は、日本との平和条約による合意がされなければならない。)

(シ) サンフランシスコ平和条約 一九五一年(昭和二六年)九月

(ⅰ) 条約第二章「領域」第二条「領土権の放棄」(C)項

「日本国は、千島列島並びに日本国が一九〇五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」

(注 ソ連は、平和会議には出席し、ヤルタ密約を理由に千島列島をソ連領と明記するよう修正を迫つたが、連合国によつて拒否されたため、これを不服として条約に参加しなかつた。

本条項の千島列島は、その英文原本では、ザ・クリル・アイランズである。公刊の日本文の条約文に千島列島と記載しているのは誤りである。したがつて、ここでの千島列島とは、シュムシュ島からハボマイ諸島までの千島列島を示すものではなく、ザ・クリル・アイランズすなわちウルップ島までの諸島である。

右につき、日本国全権委員吉田茂は、会議においてこれを明確にしている。)

(ⅱ) 第二五条「連合国の定義」

「この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。

第二一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。」

(注 右第二五条の「連合国」の定義によれば、条約に参加しなかつたソ連は本条約にいう連合国ではない。したがつてソ連は本条約による権利を主張できない。また、第二五条末尾の「また」以下の規定によれば、前記(サ)のソ連によるザ・クリル・アイランズ及び北方四島の領有宣言が連合国の認めるものではないことは明らかである。)

(ス) 以上の事実によれば

(ⅰ) ザ・クリル・アイランズは、明治八年まではロシア領であつたが、樺太千島交換条約によつて、南樺太と交換され、日本領となつた。すなわち、カイロ宣言にいう暴力及び強欲により日本が略取した領土ではない。なお、帝政ロシア政府との間の右明治八年の条約は、革命後のソ連によつてその尊重が確約されている(一九二五年(大正一四年)四月日ソ基本条約)。したがつて、ザ・クリル・アイランズは、カイロ宣言によつてもはく奪されるものではない。ただ、サンフランシスコ条約によつて、これに対する主権を連合国(ただし、ソ連は含まれない。)に対して放棄させられたものである。

(ⅱ) 北方四島(「北方領土」)は、日本の固有の領土であり、そのことは、下田条約(一八五五年(安政元年)二月)によつて帝政ロシアとの間でこれを確認している。

ヤルタ協定による、南樺太、ザ・クリル・アイランズの引渡要求は、領土不拡大を原則とするカイロ宣言に反する要求であり、日本はこれに参加していないから、日本に対して効力があるものではない。しかも、ヤルタ協定においてさえ、引渡しの対象とされているのはザ・クリル・アイランズであつて、北方四島は含まれていない。このことをソ連も認めていたことは、北方四島に対する侵攻がザ・クリル・アイランズ侵攻とは別の指揮系統の部隊によつて行われた経緯によつても明らかである。

(ⅲ) 要するに、ソ連の北方領土占領は、暴力による不法な占有であつて、歴史的にも、国際法的にも、その正当性の根拠はない。

(ⅳ) 北方領土については、一九五五年(昭和三〇年)以来歴代政府がソ連と交渉しているが、ソ連はこれに応じようとしない。この交渉を北方領土の返還問題という者があるが、右事実によれば右地域に対して不法に占拠しているソ連の退去の問題というべきである。

(3) 記述内容及びその不当性(検定基準違反)

(ア) 本件教科書(別紙目録(二)の目録番号1ないし13の区分①)の、ヤルタ密約、ソ連参戦、サンフランシスコ平和会議及び北方領土その他に関する記述は、以下に述べるとおり、前記背景事実に反するばかりでなく、その記述の態度は明らかに親ソ反米的であり、日本国及び日本国民の不運に対する悲痛の念の一片さえもうかがうことのできない内容であつて、前記検定基準の基本条件(「取扱い方の公正」)、必要条件(「全体の調和」、「正確性」、「非偏向性」)に違反するものといわなければならない。なお、以下各記述の引用部分のかつこ内の数字は、目録番号1頁1行又は脚注の番号を示すものである。

(イ) ヤルタ協定及びソ連参戦に関する記述

(ⅰ) 「八月八日にはソビエト連邦もヤルタの密約によつて参戦し、日ソ中立条約を破棄して満州や南樺太などに攻めこんできた。ここにいたつて、政府もついに降伏を決意し、ポツダム宣言を受諾するむねを連合国に伝え……」 (2―二七三―六)

(ⅱ) 「アメリカは、ヤルタ協定にもとづいてソ連の参戦する日が近づくと、戦後の日本でソ連に対して優位に立つためもあつて、完成後まもない、原子爆弾を八月六日広島に、九日長崎に……」 (3―二六七―五)

(ⅲ) 「そのあいだの八日には、日ソ中立条約は有効であつたが、ソ連は、日本に宣戦し、満州に進撃してきた。これをみた日本政府は八月一四日ポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏し、翌一五日国民はそれを、天皇の録音放送で知らされた。こうして、満州事変の年から一五年にわたる戦争は終わり……」 (3―二六七―九)

(ⅳ) 「アメリカは、戦後の国際社会でソ連より優位に立つことも考え、ヤルタ協定の密約でソ連が対日戦に加わる二日前の一九四五年八月六日、広島市に世界で最初の原子爆弾を投下した。八日にはソ連が日本に宣戦を布告し、満州・朝鮮に侵入した。」 (4―二六五―六)

(ⅴ) 「この会談では、ドイツ降伏の三か月以内に、ソ連が対日参戦すること、そのかわり樺太・千島をソ連にひきわたすことなどが、秘密にとりきめられた。」 (5―二七二―脚注①)

(ⅵ) 「この間の八日には、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、ヤルタ協定にもとづいて日本に宣戦し、満州に攻めこんだ。」 (5―二七三―八)

(ⅶ) 「また八日には、ソ連が日本に宣戦し、満州や樺太・千島を攻撃してきました。」 (6―二六一―八)

(ⅷ) 「ソ連も八日、ヤルタ協定にもとづき、日ソ中立条約を無視して日本に宣戦し、満州に攻めこんできた。」 (7―二八九―一〇)

(ウ) 右記述の不当性

(ⅰ) ヤルタ密約(協定)

ヤルタ密約(協定)は、文字どおり密約であつて、その公表は一九四六年(昭和二一年)であるから、ソ連の参戦当時の正式な理由とはされ得ない。

また、右密約に日本は参加していないから、日本に対する攻撃の正当理由にもなり得ない。

アメリカは、この密約について、一九五四年九月二五日、ソ連に対する覚書において、この協定は第二次世界大戦終了後の対日平和条約において考慮されるべき事項を取り決めたものにすぎず、ソ連の占領、占有及び主権行使の根拠となり得ない旨を通告している。

右(イ)の(ⅰ)、(ⅱ)、(ⅳ)及び(ⅷ)の各記述は、右密約があたかもソ連参戦に正当事由を付与するものであるかのように思わせるような記述である。

右密約における引渡しの対象は、ザ・クリル・アイランズであるから、「千島」という記述は事実に反する。

(ⅱ) ソ連の侵攻

右(イ)(ⅶ)のソ連の樺太、千島への侵攻が一九四五年(昭和二〇年)八月一四日のポツダム宣言受諾後の同月一八日以後に不法に行われたという極めて重大な事実の記述が欠落している。

また、右(イ)の(ⅱ)ないし(ⅵ)の各記述は、同月一五日以後のソ連の行動について全く触れていない。

(ⅲ) 日本のポツダム宣言受諾の理由

右(イ)(ⅰ)の記述が、日本の受諾の根拠としてソ連の参戦のみを掲げているのは事実に反する。アメリカの原爆投下が主たる理由である。

(ⅳ) アメリカの原爆投下の理由

右(イ)(ⅳ)の記述内容は、ソ連の主張である。アメリカは戦争終結を急ぎ、そのために原爆を投下したのである。

(エ) サンフランシスコ平和会議、平和に関する記述

(ⅰ) 「ソ連など三か国は、アメリの立場が強くでた条約草案に反対し……」 (1―一九二―五)

(ⅱ) 「中国は招かれず……」 (1―二九二―二)

(ⅲ) 「アメリカは、長期にわたる日本占領で、反米感情の高まることを心配した。朝鮮戦争がおこると、日本を独立させ、西側につなぎとめておくことが有利と考え、日本との講和を急いだ。」 (2―二八八―六)

(ⅳ) 「ソビエト連邦・ポーランド・チェコスロバキアは、講和条約に出席したが、アメリカの主導する条約案に反対して、調印しなかつた。」 (2―二八八―一五)

(ⅴ) 「サンフランシスコで五二か国による講和会議が開かれ、日本からは首相が出席した。会議はアメリカの条約草案を中心に進められ、ソ連などは反対したが、平和条約が結ばれた。」 (3―二八三―六)

(ⅵ) 「サンフランシスコで対日講和会議が開かれた。会議には五一か国が出席し……」 (4―二七九―二)

(ⅶ) 「講和会議には、中国はまねかれず、インド・ビルマは、条約案に不満で参加しませんでした。また、ソ連などは調印をことわりました。」 (6―二七七―八)

(ⅷ) 「サンフランスシコ講和会議では、ソ連など三か国が、アメリカのつくつた平和条約案に反対して、条約に調印しなかつた。」 (7―三〇六―九)

(オ) 右記述の不当性

(ⅰ) ソ連の条約不参加の理由

右(エ)の各記述のうち、ソ連が条約に参加しなかつた理由についての、「アメリカの立場が強くでた」((ⅰ))、「アメリカの主導」((ⅳ))、「アメリカの条約草案中心」((ⅴ))、「アメリカのつくつた」((ⅷ))との各記述は、ソ連の条約不参加がアメリカの態度に原因があるかのような印象を与える記述である。

しかし、右不参加の真の理由は、ソ連がヤルタ協定を根拠として、南樺太及びザ・クリル・アイランズをソ連領と明記することを求めたところ、多数国はカイロ宣言の原則に反するとしてこれに同意しなかつたことによるものである。

(ⅱ) 中国の不参加

サンフランシスコ平和会議当時、中国には中共政府と国民政府の二つの政府があつたので、いずれも当事国から除かれたにすぎない。

かかる中国不参加の理由を掲げない右(エ)の(ⅱ)及び(ⅶ)の各記述は、いたずらに反米感情を植えつけるものである。

(ⅲ) アメリカの態度

右(エ)の(ⅰ)ないし(ⅷ)の各記述は、ことさらにアメリカを非難する底意がうかがえる記述であつて、「取扱い方の公正」の基本条件に反する記述である。

(カ) 北方四島(北方領土)に関する記述

(ⅰ) 「千島の帰属については平和条約できめられず、北方領土問題として、日本とソ連との外交関係の重要問題として残された」 (1―二九二―脚注②)

(ⅱ) 「この条約で、日本は、朝鮮の独立を認め、台湾・南樺太・千島列島などを放棄し……」 (2―二八九―四)

(ⅲ) 「明治以来戦争によつてひろげた領土のほか千島も放棄し……」 (3―二八三―一〇)

(ⅳ) 「わが国固有の領土である歯舞諸島・色丹島および国後・択捉島のこと。ソ連はヤルタ協定と平和条約でソ連領になつたと主張し、日本はヤルタ協定に拘束されず、これらの島々は平和条約で放棄した千島にはふくまれないと主張している。」 (3―二八三―脚注③)

(ⅴ) 「第二次世界大戦に敗れるまで、台湾・南樺太・朝鮮などを植民地としていたが……」 (8―一三五―五)

(ⅵ) 「千島列島は、日本の領土であつたが、第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約によつて、南樺太などとともに領有する権利を放棄した。現在、国後島・択捉島・歯舞諸島・色丹島は、ソ連の支配下におかれている。」 (8―二五七―一二)

(ⅶ) 「第二次世界大戦後、日本は、サンフランシスコ平和条約によつて千島列島を放棄し、現在は、ソビエト連邦が占領している。しかし、日本政府は、択捉島より南は、放棄した千島列島にはふくまれないとして、その返還をせまつている。」 (9―二七五―一九)

(ⅷ) 「第二次世界大戦後、ソ連は日本の領土である歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島を占拠したままである。」 (10―二六九―一一)

(ⅸ) 「しかし、ソ連との間には、北方領土の帰属問題や……」 (11―八三―二〇)

(ⅹ) 「ソ連とのあいだは……国後島や択捉島などの北方領土の帰属問題は、現在も解決されていない。」 (13―二一二―七)

(Xi) 地図「沖縄の基地」

地図「北方領土」 (12―二三五―付図)

(キ) 右記述の不当性

(ⅰ) 千島の放棄(前項(ⅱ)、(ⅵ)及び(ⅶ))

前記(2)の背景事実(シ)のとおり、日本がサンフランシスコ平和条約において放棄したのは、ザ・クリル・アイランズであつて、千島列島ではない。

したがつて、右の記述は事実に反する。

(ⅱ) 南樺太(同(ⅲ)及び(ⅴ))

同(ⅲ)の記述では、カイロ宣言との関係で、南樺太も、暴力及び強欲によつて日本が略取した地域に含まれることになつて、事実に反する。

同(ⅴ)の南樺太を植民地に入れるのは事実に反する。

(ⅲ) 北方領土問題(同(ⅰ)、(ⅳ)、(ⅵ)、(ⅶ)、(ⅸ)及び(ⅹ))

前記背景事実記載のとおり、日本は北方領土(北方四島)の主権を放棄したことはない。したがつて、その帰属が問題になつているとする右記述は誤りである。

したがつて、日本の北方領土に関する要求に関しては不法に右領土を占拠するソ連の右領土からの撤退の要求であると記載すべきである。

(ⅳ) ソ連の占有(同(ⅶ)及び(ⅸ))

単に「ソ連の占領」(同(ⅶ))「占拠」(同(ⅸ))とのみ記述して、これにつき何の説明もないのは、均衡を失した記述である。

少なくとも、ソ連の占領については、日本がポツダム宣言を受諾した後に、ソ連が武力をもつて(シュムシュ島では激戦があつた)侵入した結果であることは記述すべきである。

(ⅴ) 沖縄と北方領土の比較(同(Xi))

右記述は、縮尺の異なる地図を並べて、米軍の沖縄基地の面積が北方領土に比し広大であるかのような印象を与え、均衡を失する。

(ク) 結語(意図的な記述の欠落等)

(ⅰ) 以上のとおり、本件教科書は、ソ連が不法に参戦し、その後、満州、南樺太及び千島列島に侵入して多数の日本人を虐殺、略奪し、また、数十万人を超える軍人、軍属、一般人をソ連本土に抑留し、これらに対し資本主義協力等の罪名の下に不当な刑罰を科して三年ないし一一年にわたる強制労働に服させた事実については、全く触れていない。

このように、本件教科書は、いずれも原告らが背景事実として主張する前記諸事実についてその記述を欠き、しかも、これに反する記述を含んでいるものであつて、不当である。

(ⅱ) すなわち、本件教科書は、ソ連の非には全く触れず、アメリカについては常に何らかの非があるかのような印象を与える内容のものであつて、正に親ソ反米の宣伝誌というべきものになつている。

(ⅲ) 要するに、本件教科書は、前記(ア)ないし(カ)に指摘したとおり、事実を故意に誤つて記述し、もつて反米親ソの風を起こそうという意図によるものであつて、「取扱い方の公正」、「全体の調和」、「正確性」及び「非偏向性」という検定基準の定める各条件のいずれにも全く適合しないものというべきである。

(五) 「南京虐殺事件」関係

(1) 本件教科書の記述

本件教科書の別紙目録(二)の区分②の記述は、昭和一二年一二月一三日の日本軍(中支那方面軍)の南京占領の際の状況に関するものである。その背景となる事実は、次の(2)に述べるとおりである。

(2) 背景事実

(ア) 南京の地誌

(ⅰ) 中華民国の首都

(ⅱ) 東西約五・三キロメートル、南北約八キロメートル、周囲約三一キロメートル、面積約三八平方キロメートル、市街の周囲は城壁(高さ一二〜一八メートル)で囲まれており、右城壁には中華門、光華門等十数の門がある。

郊外の下関(シヤーカン)(揚子江の港)、雨花台等を含めても約四〇平方キロメートル(ちなみに、東京都の大田区が四一・七〇平方キロメートルである。)程度の広さである。

(ⅲ) 人口はかつては一〇〇万人と称されたが、昭和一二年八月の上海戦後急激に減少し、日本軍の南京占領当時は約二〇万人と公称された。

(ⅳ) 揚子江の海運、鉄道等交通の要衝。

(イ) 両軍の兵力

(ⅰ) 日本軍(南京攻撃に直接参加した部隊)

中支那方面軍(司令官 松井大将)(兵力約一〇万人)

① 上海派遣軍=第一六師団、第九師団及び第一三師団の一部(山田支隊)

② 第一〇軍=第一一四師団、第六師団及び第五師団の一部(国崎支隊)

(ⅱ) 中国軍

南京防衛軍(司令官 唐生智)(兵力(日本側の推定)約六万人)

第二、第六六、第七四、第八三、第七一、第七二及び第七八軍団並びに教導総隊等。

国民軍首脳部(蒋介石、何応欽ら)は、昭和一二年一二月七日、部下将兵と共に南京を脱出し、無政府状態となつた。最終的には兵力は約五万人と推定される。

(ウ) 戦闘経過

(ⅰ) 南京防衛軍の配置は、次の三線である。

①  特火点及び南京城壁を利用する複郭陣地

②  南京城郊外の陣地(南京外側約一〇キロメートル内)

③  南京城外側約二〇キロメートル内外の線

(ⅱ) 中支那方面軍は、昭和一二年一二月一日隷下部隊に対し南京攻撃を下命。同月八日参加各師団攻撃準備線(南京から約二〇キロメートル)に到達。南京包囲を形成。同月九日南京防衛軍に対し時間の期限付きで降伏勧告。中国側はこれを拒絶。よつて、同月一〇日午後一時を期して総攻撃続行を下命。同月一二日、東北は紫金山、東側光華門、南は雨花台に至る地域及び南京城壁附近において激戦。同年一三日未明、防衛軍の南京一斉退却。参加各師団は各一部をもつて入城掃討。ただし、城内では、中国軍はほとんど退却し、一部は便衣に着替えて安全区に潜入したので、戦闘というほどの市街戦なし。ただし、北部郊外の下関を経て揚子江に逃れようとした敗残兵が日本軍に阻まれ、多くの戦死者が出た。

同月一七日、中支那方面軍司令官入城式挙行。

同月一八日、城内飛行場において忠霊祭挙行。

同月二二日、第一六師団を残置して(翌年一月五日まで)他はすべて城外に撤退。

(ⅲ) 戦闘が行われたのは南京城外までであつた。そして、南京防衛軍は、日本軍の利用を阻止するため、郊外(約四〇キロ)の軍事施設及び公共建物はもちろん、民家まで焼き払つた(空室清野と称す)。また、中国軍は、城内の退却に際し、放火、掠奪を行つた。

(エ) 南京安全区国際委員会

(ⅰ) 南京防衛軍司令官唐生智は、降伏を拒否して抗戦したが、昭和一二年一二月一二日、市民、部下部隊を放置したまま南京から逃走した。

南京は陥落前既に無政府状態であつた。したがつて、両軍の合意による安全区の設定も行われなかつた。しかし、南京市長馬超俊は、同月一日、全市民に対し、すべて市民は安全区(難民区)に集合することを厳命するとともに、左記国際安全区委員会に食料、金員を預託して難民の保護を依頼した後、市の職員と共に同市長自身もまた南京を脱出した。

(ⅱ) 安全区

中山路、漢中路を境界とするその西北地区(三・五平方キロメートル)を指す。難民区とも称した。最高法院、鼓楼病院、金陵大学及び教会等所在。

中支方面軍司令官は、隷下各部隊に対し、右安全区の尊重を命じ、同区内における兵力使用を厳しく禁じた(歩哨を立て出入りを禁止)。

同月一二日ころから、南京在住の難民約二〇万人(面積から見て過大とする説がある。)は、ほとんど右安全区に集まつた。また、防衛軍将兵の一部(推定)は、便衣に着替えて安全区に潜入した。

(ⅲ) 委員会(委員一五人)

委員長ラーベ(独、シーメンス洋行)、書記長S・C・スミス博士(米、金陵大学教授)。委員一三人(米人六人、英人四人、独人二人、デンマーク人一人)。

(ⅳ) 委員会の活動

委員会は、多数のYMCA会員及び紅卍学会員等を使い、昭和一二年一二月一三日から翌年二月一九日まで、安全区及び城内全域にわたり治安状況の調査、難民への給食等を行い、また、日本軍人の非行につき日、米、独の大使館等に対し連日文書をもつて通達し改善を要求した(第一ないし第六九号文書)。

(オ) 報道関係者等の入場

(ⅰ) 昭和一二年一二月一二日の入場と同時に、日本の新聞記者、カメラマン、評論家等約一二〇人、外国の通信記者約一二三人も入場した。また、以前から南京に留まつていた外国人は新聞記者を含め約四〇人である。

(ⅱ) 日本軍の入場後の行動は、右の人々の監視の下にあつた。

(ⅲ) なお、揚子江上には五隻の米英の艦船が停泊し、多数の米英人も監視していた。

(ⅳ) 日本軍及び日本領事館等が右の人々に対して報道を制限することは事実上不可能であるし、また、制限しようとした事実はない。また、南京入場の日本軍将兵に対し、南京での見聞につき、箝口令を布いた事実はない。

(3) 記述の内容及びその不当性(検定基準違反)

(ア)  本件教科書(別紙目録の目録番号1ないし7及び14ないし16及び20の区分②)には、日本軍の南京占領に関する行動につき、次の各記述がある。なお、かつこ内の数字は、目録番号―頁―行又は、脚注の番号を示すものである。

(ⅰ) 「日本軍は、子どもや婦人を含むおびただしい数の住民を殺害し、ナンキン虐殺事件として世界の非難をあびた。」 (1―二六九―八)

(ⅱ) 「このとき、多数の中国民衆が殺されたが、日本の国民には知らされなかつた。」 (3―二六四―一五)

(ⅲ) 「占領の混乱時に、日本兵は女・子供をふくむ多数の住民を殺した。」 (3―二五八―脚注②)

(ⅳ) 「このとき、日本軍は、武器を捨てた兵士や、女性、子どもまでを含めた多くの民衆を殺害した。この事件によつて、日本は国際的な非難を受けた。」 (4―二六六―七)

(ⅴ) 「日本軍は、ナンキンを占領したとき、武器をすてた中国軍兵士だけでなく、子どもや婦人をふくむ多数の民衆を殺害し、ナンキン事件として諸外国から非難されました。」 (6―二五二―脚注)

(ⅵ) 「ナンキンを占領した日本軍は、数週間のあいだに、市街地の内外で多くの中国人を殺害した、その死者の数は、婦女子・子どもをふくむ一般市民だけで七〜八万、武器を捨てた兵士をふくめると、二〇万以上ともいわれる。また、中国では、この殺害による犠牲者を、戦死者をふくめ、三〇万以上とみている。この事件は、ナンキン大虐殺として、諸外国から非難をあびたが、日本の一般の国民は、その事実を知らされなかつた。」 (7―二七七―脚注1)

(ⅶ) 「南京では、占領後のわずか数週間に、少なくとも一〇万を越える中国人婦女子や武器をすてた兵士に対して、暴行や虐殺をおこなつたといわれる。」 (14―二六五―二)

(ⅷ) 「捕虜・民衆などを大量に殺した(南京虐殺事件)。」 (15―二八八―一八)

(ⅸ) 「占領のさい、日本軍はゲリラをふくむおびただしい数の中国人を虐殺し、世界に衝撃を与えた(南京大虐殺)。」 (16―三〇七―脚注①)

(ⅹ) 「陥落から一か月余りのあいだに南京とその周辺で、婦女子をふくむ住民七〜八万人、捕虜もふくめると二〇万人以上といわれる大量の人びとを虐殺する事件(南京大虐殺事件)をひきおこしたため、……」 (20―二一〇―脚注①)

(イ)  記述の不当性

右記述の要点は、次のとおりである。

(ⅰ) 日本軍(「日本兵」とするもの前項(ⅲ)のみ)が、

(ⅱ) 南京占領の際に、

(ⅲ) 子どもや婦人を含むおびただしい数の住民(前項(ⅰ)ないし(ⅹ)、右に中国兵士又はゲリラを含めるもの同(ⅳ)ないし(ⅶ)及び(ⅹ))を殺害し(その数につき、二〇万以上とするもの同(ⅵ)、一〇万以上とするもの同(ⅶ)、婦女子七、八万、捕虜を含めると二〇万以上とするもの同(ⅹ))、

(ⅳ) 諸外国の非難を受け、

(ⅴ) 右事実を国民に秘匿した(同(ⅱ)及び(ⅵ))。

右のとおり要約される本件教科書の各記述は、以下に述べるとおり、前述の背景事実からは到底推定し得ない事実を記述したものであり、したがつて、本件検定処分は、検定基準である基本条件及び必要条件に明らかに適合しない教科書を容認したものであつて、正に違法な検定といわなければならない。

(ウ)  「日本軍」による虐殺という記述の不当性

(ⅰ) 中支方面軍司令部は、昭和一二年一二月七日「南京城攻略要領」を示達した。そのうち占領に関する南京の攻略及び入場に関する注意事項は、次のとおりである。

①  「皇軍カ外国ノ首都ニ入場スルハ有史以来ノ盛事ニシテ永ク竹帛ニ垂ルベキ事蹟タルト世界ノ斉シク注目シテル大事件ナルニ鑑ミ正々堂々将来ノ模範タルベキ心組ヲ以テ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」

②  「部隊ノ軍紀風紀ヲ特ニ厳粛ニシ支那軍民ヲシテ皇軍ノ威武ニ敬仰帰服セシメ苟モ名誉ヲ毀損スルガ如キ行為ノ絶無ヲ期スルヲ要ス」

③  「別ニ示ス要図ニ基キ外国権益特ニ外交機関ニハ絶対ニ接近セザルハ固ヨリ外交団カ設定ヲ提議シ我軍ニ拒否セラレタル中立地帯ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置ス。又城外ニ於ケル中山陵其他革命ノ志士ノ墓及ヒ明孝陵ニハ立入ルコトヲ禁ス」

④  「入城部隊ハ師団長カ特ニ選抜セルモノニシテ予メ注意事項特ニ城内外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ要スレバ歩哨ヲ配置ス」

⑤  「掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スル者ハ厳罰ニ処ス。軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ入場セシメ不法行為ヲ摘発セシム」

右に重ねて、中支那方面軍司令官松井大将は、上海派遣軍及び第一〇軍の将兵に対し、次の訓戒を自ら筆をとつて発し、その徹底を命じている。

「南京ハ中国ノ主都テアル。之カ攻略ハ世界的事件テアル故ニ、慎重ニ研究シテ日本ノ名誉ヲ一層発揮シ中国民衆ノ信頼ヲ増ス様ニセヨ。特ニ敵軍ト雖モ抗戦意志ヲ失ヒタル者及ヒ一般官民ニ対シテハ寛容慈悲ノ態度ヲ取リ之ヲ宣撫愛護セヨ。」

(ⅱ) したがつて、南京防衛軍の撤退、日本軍の占領、住民の安全区への集中という経過の中で、不幸な事態が皆無であつたとは思われないが、それは日本軍が組織的に発生させたものではない。

(エ) 「南京占領」の際の経緯についての記述の不当性

(ⅰ) 本件教科書の前記各記述は、日本軍が戦闘行動を続けながら南京城に入り、南京城の内外において軍人市民の別なく攻撃を加えたような印象を与えるが、前記背景事実によれば、南京攻撃及びこれに引き続く占領の経過は次のとおりであるから、このような記述は事実に反する。

(ⅱ) 日本軍は、昭和一二年一二月八日南京包囲を完成し、同月九日開城を期限付き(同月一〇日正午)で勧告し、同月一〇日午後一時から一斉に攻撃を再開し、同月一二日城壁付近に達した。同月一三日早朝南京防衛軍の撤退を知り、計画のとおり各師団から選抜した一部の兵力をもつて掃討に従事した。その際住民は前記安全区に集中し、他の地区の防衛軍は同日未明撤退していたから、右掃討の際戦闘はほとんど行われていない。

(ⅲ) したがつて、本件教科書中の「市街地の内外」(同(ⅵ))、「南京とその周辺」(同(ⅹ))という記述は、占領地域に南京城外を含めている点で誤りである。

(ⅳ) また、本件教科書中には期間について記述していないものが多いが、一部には数週間とするものもある(同(ⅵ)及び(ⅶ))。しかし、日本軍の占領は、昭和一二年一二月一三日から同月二二日の一〇日間であり、その間、同月一七日、方面軍司令官の入城式が整然と行われている。

(オ) 殺害の対象についての記述の不当性

(ⅰ) 本件教科書の各記述は、すべて(同(ⅰ)ないし(ⅹ))虐殺の対象となつた者を婦女子を含む一般住民としている。

しかし、日本軍は、昭和一二年一二月一三日早朝南京防衛軍の撤退を知り、各師団から選抜した一部の兵力をもつて、南京の全周から掃討に入つたのであるから、戦闘は行われず、前記安全区以外では残敵を認めず、住民もほとんど見ていない。

一般住民(当時二〇万人と推定される)は、すべて安全区に集中していた。

したがつて、仮に日本軍による虐殺、殺人が組織的に行われたとすると、安全区(三・五平方キロメートル)において、国際安全委員会、内外の新聞記者等約一四〇人の監視の中で行われたことになる。しかし、そのような事実はなく、これら新聞記者、外国人等から抗議が行われた事実はない。

(ⅱ) 「一般市民」「七〜八万」(同(ⅵ)及び(ⅹ))という記述の不当性

南京の住民数については、安全区国際委員会のスミス博士(委員長書記長、金陵大学社会学教授)の調査及び推定によると、南京陥落当時の人口は二〇万人、昭和一三年三月行つた抽出調査の結果でも二二万一一五〇人となつている(なお、委員会としては、馬超俊市長から委託された難民に対する給食糧食補給のため、人口の掌握が必要であつた)。

したがつて、占領当時安全区に集まつていた住民は二〇万人程度であるから、そのうちの七〜八万人というのは、全住民の約四〇パーセントに当たる。これを入城式が行われた日を含めて、一〇日間で殺害するためには毎日八〇〇〇人近くの人間を内外人監視の中でわずか三・五平方キロメートルの狭い地域の中で秘かに殺害しなければならないことになるが、これは不可能である。また、秘かに七〜八万人の住民を他に移動することも不可能である。

このように、本件教科書中の「子どもや婦人をふくむおびただしい数」(同(ⅰ))、「七〜八万人」(同(ⅵ)及び(ⅹ))などの記述は、物理的に信用できる数字ではない。したがつて、この種の記述は、教科書の記述としては、検定基準に適合するものではない。

(ⅲ) 「兵士をふくめると、二〇万人以上」(同(ⅵ)及び(ⅹ))という記述の不当性

南京防衛軍の兵力は、日本軍の推定で約一〇万人、中国側の発表で一五万人であり、しかも、防衛軍の昭和一二年一二月一〇日以降の戦闘の経過を見ると、同月一〇日以降南京の防衛に当たつた兵力は約五万人であつて、それも同月一二日までに一部の撤退掩護部隊を南京に留めただけで他は南京北部から揚子江に撤退している。

したがつて、南京占領当時残存していた中国軍は、一万人を超えないと判断されている。また、残存中国兵は軍服を捨て便衣を着用して安全区に潜入したものと推定されている(日本軍は、前記掃討中、軍装の中国兵に遭遇していない)。

したがつて、本件教科書中の「一般市民だけで七〜八万、武器を捨てた兵士をふくめると、二〇万人以上」という記述(同(ⅵ)及び(ⅹ))は、計算上全く不合理な数字である。すなわち、仮に右記述のとおりであるとすると、中国兵の数は一二万人を超えることになるが、それは同月八日以来南京戦に参加した総兵力にほぼ匹敵し(日本側の推定一〇万、中国側の発表一五万)、同日以来中国側は何の損害もなく、撤退もせず、全員安全区に潜入したことになる。したがつて、右記述に係る数字が不合理であることは、前記の経緯によつて、明らかである。

また、「中国では、この殺害による犠牲者を、戦死者をふくめ、三〇万以上とみている」(同(ⅵ))という記述は、不思議な記述である。すなわち、中国側の教科書においても、これらの数字に戦死者を含めてはいない。戦死は戦闘の結果である。この記述は、いたずらに中国に迎合し、日本軍の非行を誇大に印象付けようとする記述である。調査不十分な不完全な記述というより、ためにする宣伝であつて、教科書として許される記述ではない。

(ⅳ) 「武器を捨てた兵士」(同(ⅳ)ないし(ⅶ))、「捕虜」(同(ⅷ)及び(ⅹ))、「ゲリラ」(同(ⅸ))という記述の不当性

「武器を捨てた兵士」という表現は、いかにも戦力のない、無害な者であるかのごとき印象を与えるが、武器を持つていなくても、明らかに投降の意志を表明した者でない限り、武器の補給を受ければ直ちに戦力になるのであつて、軍隊と区別することはできない。しかも、南京占領時における掃討中、要所に隠匿された多数の武器、弾薬が発見されており、市街には武器、軍服が投げ捨てられていたから、中国軍が軍服を便衣に替えていたことは明らかである。安全区及びその周辺には軍服着用の者は発見されていない。したがつて「武器を捨てた」との記述は事実に反するばかりでなく、いかにも日本軍が暴虐であつたとの印象を与える、ためにする記述であつて、中国に対する迎合以外の何ものでもない。

南京攻撃において、日本軍は、ほぼ完全に、南京を包囲し、中国側の退路となつたのは南京北部の揚子江に沿う地域である。この付近で約一万五〇〇〇人の投降があつたという記録はある。しかし、南京城内では大部分の中国兵は撤退し、その撤退掩護に従事した約一万人の兵士も便衣に着替えて安全区及びその周辺に潜伏した。安全区で投降した者はない。

また、「ゲリラ」とは、「遊撃戦を行う小部隊」であつて、軍隊である。したがつて、仮に南京市街にゲリラがいて遊撃戦が行われ、これに対し日本軍が戦闘を交えたとしても何ら非難される事実ではない。しかも、占領後、中国側によるゲリラ戦が行われた事実はない。したがつて、本件教科書中の「ゲリラをふくむおびただしい数の中国人を虐殺し」なる記述は、事実に反するばかりでなく、いたずらに中国に迎合し日本軍を非難するためのものであり、単なる修辞として看過できるものではない。

(ⅴ) 南京安全区国際委員会の調査、通報

前記国際委員会が南京の治安につき自ら調査した結果又は住民の申出に基づき日本軍人による昭和一二年一二月一三日から翌年二月七日の間の非行として日本大使館に通報したものをまとめると、次のとおりである。

殺 人 四九件

傷 害 四四件

連 行 三九〇件

強 姦 三五九件

掠奪 その他 一七九件

計 一〇二一件

右の苦情の中には風聞ないし誇張が含まれており、全面的に信用できるものではないが、仮にこれをすべて真実であるとしても全部で一〇二一件にすぎないのであつて、前記教科書の記述は、事実の合理的な分析からも、また、右委員会の報告からも客観的事実に反することは明らかであり、到底看過できる記述ではない。

(カ) 国際的非難という記述の不当性

同(ⅰ)、(ⅳ)ないし(ⅵ)及び(ⅸ)の各記述中には、南京占領に際し、日本軍が多数の住民を殺害し世界の非難を浴びた旨の記述部分がある。

占領直後、日本の新聞社等の報道関係者一二〇名及び外国通信社記者一二名が南京に入城して取材に当たつていたのであるが、右について何ら報道していない。わずかにニューヨーク・タイムズのダーディン記者の「およそ二万人の中国兵が日本軍により処刑されたことがあり得る」という推測記事があるのみである。また、中支那方面軍司令官松井大将は、昭和一二年一二月一七日南京入城式を行つた後、同月二三日上海において外人記者団と会見し、一部の記者に対しては各国の世論や反響について質問もしているのであるが、記者側からは、いわゆる「南京虐殺事件」については何らの質問もなく、また、各国の世論等について格別のことが述べられたという事実も存しない。

しかしながら、第二次世界大戦後、極東軍事裁判が行われ、松井大将に対する公訴事実として「南京虐殺事件」の存在が主張され、これによつて右事件が世界の話題になつたことはあるが、それ以前にはこのようなことはなかつた。また、極東軍事裁判の手続は、世界の常識としての刑事手続からみても極めて不備なものであつて、これによつて「南京虐殺事件」の存在が立証されたわけではない。一般にも、ある事実の存在が法廷で主張されたことが直ちに右事実の存在の根拠になるものではないことは、ごく常識的な事実である。

要するに、「世界の非難をあびた」といい得るためには、少なくとも当時の数か国の政府声明あるいは国際会議における発言又は議決ないし世界的に評価された新聞等の報道がなければならないが、かかる事実はいずれも認めることができず、単に約一〇年後の極東軍事裁判における論争の内容が報道されたことがあるにすぎないのである。

したがつて、事件後一〇年を経た極東軍事裁判において右事実の存否が争われたという記述でもあればともかく、南京占領直後これを理由に日本が国際的な非難を浴びたという記述は、明らかに歴史的事実に反する記述である。これは単なる不注意や学説による差異というものではなく、中国に迎合した、ためにする記述であつて、自国の歴史を著述する者として許すべからざる態度である。かかる記述を検定し、教科書として顕在せしめた文部大臣の行為は、明らかに違法である。

(キ) 報道管制(同(ⅱ)及び(ⅵ))という記述の不当性

同(ⅱ)及び(ⅵ)の「日本の国民には知らされなかつた」という記述は、中支那方面軍が右事実を秘匿するためこれを故意に報道させなかつたという趣旨の極めて悪意に満ちた記述である。

前記背景事実において述べたとおり、日本軍の南京入城と同時に約一三〇名の内外記者が報道を制限されたという事実は存しない。

要するに、右事件について何らの報道もされなかつたのは、事実が存在しない以上当然であるのにもかかわらず、本件教科書中の「南京虐殺事件」関係の各記述は、日本軍によつて報道が制限されたからであるかのような印象を与える内容の記述であつて、教科書の記述として到底容認できるものではない。

(ク) 結語

以上のとおり、本件教科書中の「南京虐殺事件」関係の各記述は、いずれも、原告ら主張の前記背景事実からは到底推定し得ない事実である。

仮に原告らの主張に反する資料が存するとしても、相反する説の一方のみを何の用意もなく記述するのは、「取扱い方の公正」の条件に違反するというべきである。

右各記述は、要するに、日本軍が南京占領に際し、数万人の婦女子を含む住民を殺害しかつこれを国民に対し秘したというものであり、ことさらに日本軍という組織体ひいては日本国民が残虐であつたという印象を与え、国民をして国家に対する信頼及び愛情を失わせ、さらにこれに関与した者を犯罪者と思わせるものであつて、「取扱い方の公正」、「全体の調和」、「正確性」及び「非偏向性」という検定基準の定める各条件のいずれにも全く適合しないものというべきである。

(六) 「侵略」関係

(1) 本件教科書の記述

本件教科書には、日本の満州事変以降の一連の軍事行動に関連して、別紙目録(二)の区分③に指摘する各記述がある。

なお、本件教科書中には、「日本の大陸侵略」、「中国侵略」等の記述が存するが、一五世紀以降の西欧諸国のアジア、アフリカ侵略及び近代における帝国主義諸国家の「侵略」については一切記述がなく、歴史上公知の事実であるソ連の北欧、アジア「侵略」についての記述も全く存しない。

このように、本件教科書中の「侵略」の記述は、日本の国家行為及び戦争行為のみに限定されていることを特に注記する必要がある。

(2) 背景事実

今世紀初頭から太平洋戦争終結に至るまでの間に日本が国家として中国大陸等に対して関与した行為に関しては、それが当時の国際条約その他の国際法規に照らし、いわゆる「侵略」行為すなわち「他国に無理に押し入つて、領土や財物を奪取する」行為ではなかつたことは、歴史上明白である。

すなわち、右一連の日本の国家行為及び戦争行為は、自国の権益保護及び安全保障のための自衛行為であり、東アジア諸民族の独立の契機ともなつたものであつて、これを「侵略」と評価することは明らかに不当である。

以下、本件教科書中に「侵略」の用語が用いられるに至つた経緯を背景事実として詳述する。

(ア)(ⅰ) 日本が国際法上の犯罪である「侵略」を行つたという観念は、第二次世界大戦終戦直後の極東軍事裁判(東京裁判)に由来するといえる。

同裁判は、日本が「ウォー・オブ・アグレッション」を行つたと断定し、これを国際法上の犯罪として、戦争責任者の個人責任を追及した。そして、「侵略」の用語に関して特に注意すべきことは、右「ウォー・オブ・アグレッション」の語が、全く機械的に「侵略」と和訳されてしまつたことなのである。

そもそも、「アグレッション」とは、本来「アンプロヴォークト・アタック」(挑発を受けない攻撃)を意味する英語であり、和訳すれば「進攻」ないし「攻撃」の意であり、前述のとおり略取、掠奪の意を含む「侵略」には全く該当しないものであつた。それにもかかわらず、このような決定的な誤訳がされたことは、極めて重大な意味を持つていたというべきである。

(ⅱ) しかして、当該戦争行為が自衛戦争であるか、それとも攻撃戦争であるかについては、当時の国際法規から見て関係国の「自己解釈権」が確立し、かつ、当該問題の「裁判不能性」が確認されていたことから、国際裁判所が決定できる性質のものではない。

したがつて、「アグレッション」(侵攻)の語は、せいぜい各交戦国が独然的な態度で相手に投げかける単なる非難の色彩しか持たない用語なのである。

(ⅲ) 翻つていえば、日本語としての「侵略」の用語は、「他国に無理に押し入つてその領土や財物を奪い取る」等罪悪という評価を持つ用語であり、自国の国家行為を評価する場合には全く不適切な用語であつて、特に自国の教科書等、自国民の人格形成を司どる教材に使用することは論外ということになる。

(イ) 右の論理的帰結及び思想に対する自覚から、国及び文部省においても、昭和五六年度以前の検定済教科書には、日本の戦争事象に関する表現には「侵略」の用語は一切使用されておらず、「進攻」、「進入」、「攻撃」、「占領」ないし「軍事介入」等の用語が使用されていたものであることは、至極当然のことといえよう。

ちなみに、その当時、家永三郎氏の高校「日本史」教科書の内閲調整の段階で、右教科書に「侵略」の用語が使用されている点に関し、当時の文部省調査官は「『侵略』が罪悪という評価を持つ用語として使われている」と指摘してこれに改善意見を付した経緯すらあつたほどである。

(ウ)(ⅰ) しかるに、「侵略」の用語が教科書に登場した経緯には、次のとおり、実に国家主権を放棄したに等しい側面があつた。

すなわち、昭和五七年六月二七日、朝日新聞がその紙面において「教科書検定制度―いわゆる″進路″″進出″の問題」と題する報道をしたことが、その契機となつた。

右報道は、誤解と推測に基づく報道であつたにもかかわらず、これが増幅拡大され、ついには韓国及び中国の両国が外交上の圧力をもつて教科書の改訂を迫るという事態にまで発展するに至つた。そもそも、国家が他国の教科書、教材等における記述について指示、要望するなどということは、内政干渉の最も極たるものであつて、前例を見ない事態である。

しかして、政府は、対応に苦慮したことはうかがえるにしても、同年一一月二四日付けを以て「教科用図書検定基準」第三章「必要条件」第二節「社会科の必要要件」第一「社会科」の中に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」という一項を挿入するという措置をとるに至つた。右は要するに、教科書に「侵略」の用語を用いるべしとの趣旨の措置であり、その結果、日本の戦争事象についての教科書における記述は全面的に「侵略」と変更され、昭和五七年度検定済教科書は「侵略」の用語のはんらんする記述に終始したのである。

(ⅱ) したがつて、我が国の社会科教科書に「侵略」の用語が使用され始めたのは、昭和五七年度検定済教科書からのことなのである。

(3) 記述の不当性(検定基準違反)

本件教科書(目録番号1ないし7、15及び17ないし20)には、別紙目録(二)の区分③に掲げたとおり、「日本の侵略」についての記述がある。

右教科書の各該当箇所の記述は、まず「侵略」の用語をもつて記述していること自体において、前記検定基準の定める各条件に違反し、不当である。けだし、「侵略」の用語は、「他国に無理に押し入つて、領土や財物を奪取すること」等罪悪ないし犯罪行為という評価を持つ用語であつて、かかる用語を自国の児童及び生徒用の教科書に自国の国家行為を評価する記述として使用することは、明らかに不適切である。しかも、満州事変以降第二次世界大戦終結に至るまでの日本の国家行為及び戦争行為については、「侵略」という評価と「自国の安全保障ないし自衛行為」という評価との両方の評価が対立しているものであるところ、昭和五六年度以前の検定済教科書においては、「侵略」の語は罪悪という評価を持つ用語であるから不適切であるとの当時の文部省の方針から、日本の国家行為については一切「侵略」の用語は使用されていなかつたのである。仮に原告らの主張に反する論拠があるとしても、対立する評価の一方のみによる本件記述が「取扱い方の公正」の条件に反することは明らかである。

次に、右記述は、「侵略」の用語が他国の国家行為及び戦争行為等については一切使用されておらず、自国の国家行為及び戦争行為等についてのみ使用されている点においても、前記検定基準の定める各条件に違反し、不当である。

すなわち、前記(2)に述べたとおり、「侵略」の用語は、純粋に国語学上の意味においても、また、国際法上の意味においても、日本の国家行為及び戦争行為を表現する用語として不適切であることは明白であり、かつ、日本のみについて右「侵略」の語を使用することは、重ねてその不当性を倍化させることになる。

以上のとおり、右「侵略」の記述は、二重の意味において、前記各検定基準の「取扱い方の公正」の基本条件並びに「全体の調和」、「正確性」及び「非偏向性」の各社会科の必要条件に各違反するものというべきである。すなわち、右各検定基準の文言上、「侵略」の教科書記述が右各条件に違反することは明白であり、かつ、「侵略」の用語が教科書に使用されるに至つた経緯に照らしても、右の理はより一層明らかである。

第二次世界大戦を通じて戦死した多くの日本国民及び現存する国民全体にとつて、「侵略」の用語が国民の人格形成の基本たる教科書に使用されていることは、著しい名誉の失墜となるものであつて、到底許容できるものではない。

5 過失

(一) 文部大臣は、本件教科書の検定に当たり、これらの教科書には別紙目録(二)に摘示する各記述があり、これを除去しなければ「教科書として適切である」(検定規則九条一項)とはいえないこと、及び右各記述が教科書に記載されることによつて右記載事実に密接な関係を有する原告らに重大な精神的苦痛を与える結果となることを予見し、これに修正意見を付し(同条二項)、あるいは不合格の決定(同条一項)をするなどして右結果の発生を防止すべき義務があつたにもかかわらず、右予見義務及び結果回避義務に違反し、本件教科書につき合格の決定をした過失がある。すなわち、以下のとおりである。

(二) 予見義務及び予見可能性

(1) 本件教科書中の別紙目録(二)に摘示する「北方領土」、「南京事件」及び「侵略」の各記述に関する歴史的事実は、いずれも現在からわずかに五〇数年以内の範囲の事柄である。

(2) そして、教科書は、ひとたび文部大臣がこれを適切であると認定(検定)すると、日本の義務教育諸学校及び高等学校の児童、生徒に無償配布され、その教材として教授の用に供されるものであつて、その権威は絶大であり、市販の図書、雑誌あるいは論文の記載とは異なりその記載の持つ意味は極めて重大である。

(3) したがつて、文部大臣は、前記の各歴史的事実に関する本件教科書中の記述の検定に当たつては、右各歴史的事実がいずれも過去わずか五十数年以内の事象であり、しかも、教科書の記載が検定によつて絶大な権威を付与されるものである以上、原告らのように右各歴史的事実に密接に関係して身命を危険にさらし、あるいは国からの叙勲という名誉を受けた者が今なお現在し、かつ、右記述によつて原告らを含むこれらの関係者の名誉を毀損し、これらの者に甚大な精神的苦痛を与える結果になることを予期すべきであり、また、予期し得たのである。

(三) 結果回避義務

(1) 文部大臣は、著述者又は発行者の申請に係る当該図書の原稿本について、「教科用として適切であるかどうか」を検定審議会に諮問し、その答申に基づいて、原稿本審査合格又は不合格の決定を行い、また、右合格の条件として修正意見を付することによつて、不適切な記述を除去する権限を有している(検定規則六条、九条)。

(2) したがつて、文部大臣は、本件教科書の前記各記述について、前記(二)の予見をすることが可能であつたものである以上、これを理由に不合格の決定をするか、又は修正意見を付した条件付合格の決定をすることによつて、前記の違法な本件検定処分の結果を回避すべき義務があつたものというべきである。

(四) 文部大臣の過失責任

以上のとおり、文部大臣は、本件教科書の審査に当たり、予見義務及び予見可能性並びに結果回避義務が存するにもかかわらず、右各注意義務を怠つた結果、検定基準に違反した不適切な本件教科書を教科書として顕在化させるに至つたものであつて、右違法の本件検定処分につき過失責任を免れない。

6 損害

文部大臣が本件教科書を検定合格とした結果、これらが日本の義務教育諸学校及び高等学校の児童及び生徒の教材となり教授の用に供されるに至つたことは、以下に述べるとおり、右各記述の事件に直接関与した原告らにとつて重大な侮辱であり、右教科書の記述によつて、原告らの身命を賭した努力は全く無視され、あるいはその著書等の評価は甚しく低下するなど、原告らの名誉は著しく毀損され、あるいはその自説を公的に否定された結果を招来し、その結果、原告らは甚大な精神的苦痛を被つた。

(一) 「北方領土」問題関係の記述について

(1) 本件教科書の北方領土に関する記述は、前記のとおり、ソ連による不法侵略並びに日本の軍人等に対する不法な抑留及び強制労働についてはことさらに記述せず、かえつて、ソ連による侵攻及び北方領土の占領をあたかも正当な根拠に基づくものと誤解させるような記述であつて、正に親ソ、反米、反日ともいうべきものである。

(2) 右のごとき本件教科書の記述は、原告水津及び同菅野が日本のために身命を賭してソ連の不法な侵略に応戦し、苛酷な強制労働に服したことに対して一片の感謝の念も同情の念も示すものではなく、全く無視し去つているものであり、正に同原告らに対する重大な侮辱であつて、原告らの精神的苦痛は筆舌に尽くし難いものがある。

(3) また、右記述は、原告水津の前記著述等を意図的に侮辱するものであり、同原告の著書等に対する評価を著しく害するものである。

(二) 「南京虐殺事件」関係の記述について

(1) 本件教科書の「南京虐殺事件」に関する記述が阿中、反日の姿勢に基づく事実に反する不当な記述であることは、前述のとおりである。

(2) 右のごとき本件教科書の記述によつて、「南京虐殺事件」は無根の事実である旨の著述、講演等の活動を続けてきた原告田中に対する評価は甚だしく低下し、同原告は著しく名誉を害されるに至つた。

(3) また、右記述は、南京攻略戦及び南京占領に直接参加して戦攻による栄誉を受けた原告畝本及び同西坂の行動に対する重大な侮辱であつて、同原告らの被つた精神的苦痛は計り知れないものがある。

(三) 「侵略」関係の記述について

(1) 本件教科書が満州事変以降の日本の一連の軍事行動について「侵略」の用語を使用していることの不当性については、前述のとおりである。

(2) 本件教科書が日本の満州事変以降の軍事行動について「侵略」の語をもつて記述していることは、職業軍人として満州事変以降の日本の軍事行動に直接参加して軍人としての相当の栄誉を授けられ、自らの戦歴及び軍歴ひいては日本の戦争行為自体につき多大な誇りと名誉を保持してきた原告木ノ下及び同伊勢の名誉及び信用を完全に失墜させるものであつて、その被つた精神的苦痛は計り知れないものがある。

(3) また、原告木ノ下は、昭和五六年度以前の検定済教科書の記述に基づき、多数の著作物、講演を通じて、満州事変以降の日本の軍事行動を自衛行為と評価し、「侵略」の評価を積極的に否定してきた者であるが、本件教科書が公的に認容され、国の権威を付与された検定済教科書として使用されるに至つたことによつて、昭和五六年度以前の教科書に基づく自説を公的に否定される結果を招来したものであり、同原告に対する評価の低下及びその被つた精神的苦痛は重大である。

(四) 検定済教科書の記述の特殊性

右のごとき内容の記述が教科書以外の書籍にその著者名下に記載されている場合には、単なる共産主義者ないし親ソ阿中、反日者流の宣伝にすぎないとしてこれを笑殺し無視することもできるが、検定済教科書は、文部大臣によつてその内容が日本の児童及び生徒の教材として適切であると公認され、しかもその使用及び右内容の教授が法律上強制されることによつて、いわば国家の権威を付与されて国民に供給されるものであるから、その世間に対する権威ないし影響力は絶大であり、したがつて、右原告らが被る精神的苦痛並びに原告水津、同田中及び同木ノ下の各著書等の評価の低下もまた極めて甚大である。

(五) 慰謝料

以上のとおり、文部大臣の検定基準を逸脱した違法な検定処分の結果、前記の不当な記述を含む本件教科書が検定済教科書としての権威を付与されて国民に供給されたことによつて、原告らは多大な精神的損害を被つたものであつて、右精神的損害を金銭に評価すると、各原告についてそれぞれ金一〇〇万円を下らない。

7 よつて、原告らは、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、損害賠償としてそれぞれ金一〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五九年三月二三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二 請求原因に対する答弁

1 請求原因1は不知。

2 同2及び3は認める。

3(一) 同4(一)は認める。

(二) 同4(三)のうち、義務教育検定基準及び高等学校検定基準の双方に(1)の(ア)「基本条件」及び(イ)「必要条件」の各条件が規定されていることは認めるが、その余は争う。

(三) 同4の(四)ないし(六)は争う。

4(一) 同5の(一)及び(二)は争う。

(二) 同5(三)の(1)は認めるが、(2)は争う。

(三) 同5(四)は争う。

5 同6は争う。

三 被告の主張

1 本件検定処分の適法性

(一) 学校教育法二一条は、文部大臣が教科書検定の権限を行使し得る範囲及び方法について、何らの制限も設けていない。したがつて、法律上は、文部大臣は、憲法、教育基本法、学校教育法等の定める教育目的を達成するために、必要かつ合理的な範囲で教科書検定を行い得るのである。換言すれば、文部大臣の教科書検定が裁量の範囲外とされるのは、憲法、教育基本法及び学校教育法等の教育法制によつて定められた教育目的に反し裁量権を逸脱又は濫用した場合に限られ、それが裁量の範囲内にある限り違法の問題を生ずる余地はないのである。

(二) 教科書検定がこのように裁量行為とされるのは、以下のとおり、それが高度の教育専門性及び技術性を求められていることによるものである。

(1) すなわち、そもそも、教科書とは、「教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書」(教科書の発行に関する臨時措置法二条一項)であり、このことから、教科書に関しては、次の各要件を満たすものであることが要求される。

(ア) 第一に、「教育課程の構成に応じて組織排列された」ものでなければならない。したがつて、指導の順序を考慮しない統計表とか歴史年表といつた単なる資料集だけでは教科書とはいえない。

(イ) 第二に、「教科の主たる教材」という以上、学習指導要領の定める教科の目標及び指導内容等に応じた教材でなければならない。

(ウ) 第三に、「教授の用に供せられる」ものであるということである。それゆえ、教科書は、教師の児童、生徒に対する学習指導の媒介をなすものとして効果的なものでなければならない。

(エ) 第四に、「児童又は生徒用」の図書であるということである。したがつて、教科書は、児童及び生徒の心身の発達段階や学習の適時性を考慮しながら、教育的配慮の下に作成されなければならない。

(2) 教科書検定は、当該申請図書が教育基本法及び学校教育法の趣旨に合致し教科書として適切であるか否かを審査する行為であるが、右審査に当たつては、当該申請図書が右(1)のように教科書としての要件を具備しているかどうか、教科書として備えるべき条件の充足に関し許容し得る範囲内にあるかどうかを専門的、技術的に判断することが必要である。このような文部大臣の裁量判断は、極めて教育専門的、技術的分野であるから、行政庁が自ら専門機関を設けて判断するにふさわしい事項であるといわなければならない。

(三) もつとも、文部大臣に裁量権が認められているといつても、それは文部大臣の恣意的判断を許すことを意味するものでないことはいうまでもなく、文部大臣は、運用上の判断基準として、検定基準を自ら定め(前記義務教育検定基準及び高等学校検定基準)、右基準に基づいて適正かつ合理的な裁量判断を行つている。

本件教科書に対する検定に際しても、文部大臣は、右検定基準に従つて適正かつ合理的な裁量判断を行い、各原稿本の記述が検定基準に照らして許容し得る範囲内のものであると認めてこれを合格処分に付したものである。

原告らは、本件教科書の記述が原告らの支持する資料等に照らすと公正さ、正確性等を要求する検定基準に違反する旨主張するが、それは、教科書の記述と原告らが主観的に正しいと信ずる見解とが完全に一致しない限り不公正ないし不正確と主張することにほかならず、その主張自体において失当であることはいうまでもない。

2 個別具体的な法的義務の不存在

(一) 国家賠償法一条一項は、国又は地方公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときは、国又は地方公共団体がこれを賠償する責めに任ずることを規定するものである。したがつて、文部大臣の検定行為が同条項の適用上違法となるためには、文部大臣の当該行為が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背した場合でなければならない。しかしながら、文部大臣は、以下に述べるとおり、検定に関し、教科書執筆者ないし検定申請者以外の第三者に対する関係において右のような法的義務を負うものではない。

(二)(1) 文部大臣の教科書検定権限は、学校教育法二一条一項、四〇条、五一条、七六条等によつて認められているものであるところ、同法においては、右検定権限の行使につきこれを制限する何らの規定も設けられていないし、同法はもとより教科書検定に関連する諸法規の中にも原告らのような立場にある国民に対する関係において文部大臣に対し何らかの法的義務を課した規定は存在しない。

(2) さらに、教科書とは、前記のように「教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書」であるから、公教育の中心である学校教育において極めて重要な位置を占めるものといわなければならず、また、学校教育においては、国民の教育を受ける権利を保障するために、教育内容につき、教育の機会均等を実質的に保障し、全国的にその一定の水準を維持しかつその向上を図るとともに、教育の中立性と適切な教育内容を確保することが、国民的立場から要請されるところである。しかも、初等中等教育機関である、小・中・高等学校の教育対象となる児童及び生徒は、いまだ心身の発達段階にあり、教育内容を批判する能力がなく、また、それを選択する余地も乏しいこと等に照らすと、その児童及び生徒の発達段階に応じた慎重かつ適切な教育的配慮が要請されるのであり、文部大臣の教科書検定権限は、以上のような高度の公益的要求に応えるために認められているものである(教育基本法一条ないし三条、前記両検定基準各第一章総則)。

(3) したがつて、文部大臣が教科書検定権限を適法に行使した結果、原告らの名誉権ないし人格権が保護されることがあるとしても、それは検定権限行使の結果によつてもたらされる反射的利益にすぎないものであり、原告らが自己の名誉権ないし人格権を擁護するために文部大臣に対し適法な検定権限の行使を求める権利を有するものではないことはいうまでもないところである。

(4) もとより、教科書検定権限は、前記のように高度の公益的要求に基づくものであるから、文部大臣において右権限を適法に行使すべきことは当然のことであり、この意味において適正な検定権限の行使は文部大臣の権限であると同時に義務でもあるといえるが、かかる義務は、国民全体に対して負担する一般的、抽象的義務であつて、個別の国民の具体的権利に対応した法的な義務というべきものではなく、検定関係法規上もそのような法的義務の存在をうかがわせるような規定の見当たらないことは前述のとおりである。

(5) そうすると、文部大臣は、原告らに対し、適正な検定権限を行使すべき具体的な法的義務を原則として負担していないのであり、かかる法的義務の存在を前提とする本訴請求は、その前提となる主張自体において失当であるといわなければならない。

(三) また、仮に、文部大臣が検定権限の行使に当たり第三者である国民に対しその名誉権ないし人格権を保護すべき法的義務を負う場合があり得るとしても、検定権限行使の目的及びその裁量行為性に照らすと、右義務は、当該記述が第三者である国民の名誉権ないし人格権を毀損することが一見して明白であり、かつ、検定基準上これを是正すべく検定権限を行使すべきことが一義的に確定されるような極めて例外的な場合に限つて肯定されるものと解すべきである。本件記述がかかる場合に該当しないことは原告らの主張自体に徴しても明らかであるから、本訴請求は、かかる点からもその主張自体において失当である。

3 損害の不存在

原告らは、本件教科書の記述及び検定によつて名誉が毀損され、あるいは重大な侮辱を受け、その結果精神的苦痛を被つた旨主張する。

しかしながら、原告らが本件教科書の記述及び検定によつて被つた旨主張する「精神的苦痛」は、以下に述べるとおり、いずれも、国家賠償法一条一項所定の損害には当たらない。

(一) 不法行為法において、名誉毀損として法的な保護を受ける「名誉」とは、人に対する社会的評価を低下させる行為であると解されており、人の主観的な名誉感情の侵害のみでは名誉毀損にはならない。けだし、人の主観的な名誉感情を侵害するにとどまる行為は、その人に対する社会的評価を低下させたとはいえないからである。

これを本件についてみると、原告らの前記主張は、いずれも、原告らの主観的な名誉感情が侵害された旨主張するだけで、社会的評価が低下した事実を主張するものではない。

したがつて、原告らの損害に関する主張は、それ自体国家賠償法一条一項所定の損害には当たらないというべきであるから、本訴請求はこの点において失当であるといわなければならない。

(二) また、名誉毀損が成立するためには、被害者が特定されていることが必要であり、例えば東京都民とか九州人というような表現を用いただけでは対象が漠然としているので、原則として、その集団に属する特定の人に対する名誉毀損にはならないと解されている。

これを本件についてみると、原告らが適切でないと主張する本件教科書の各記述は、特に行為主体を明示していないか、あるいは、せいぜい「日本軍」又は「日本兵」の行つたこととして記述されているにすぎず、原告らの氏名が明示されていないのはもちろん、「日本軍」又は「日本兵」といつた表現にしても、その集団は余りにも広大であつてそこに属していた原告ら個々人を特定したことにはならず、ほかに原告ら個々人がその行為主体であると推知させ得るような記述もない。

したがつて、本件教科書の各記述が原告ら個々人を特定したものではない以上、原告らに対する関係で名誉毀損による不法行為が成立する余地がないことは明らかである。

(三) 原告らは、検定済教科書は文部大臣によつてその内容が教科用に適すると公認されたものであるから、その世間に対する権威は絶大であり、これによつて原告らが被る精神的苦痛及び著書等の評価の低下もまた甚大である旨主張する。

しかしながら、教科書検定とは、民間で著作、編集された図書について文部大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用することを認めることをいうのであり、文部大臣の右審査は、専ら教育の中立性の確保ないしは教育水準の維持、向上の見地に立脚し、初等中等教育の対象である児童・生徒の心身の発達段階に応じた慎重な教育的配慮の下に行われるものである。

このような教科書検定の性質ないし目的にかんがみると、教科書検定は、原告らの右主張のように当該図書の記述内容を権威付けることを目的とするものではないことは明らかである。また、一定の歴史的事実の評価に関して学説等が分かれている場合に、前記のような見地及び教育的配慮から、そのうちの一つの見解が教科書に記述されたからといつて、そのことのみをもつて直ちに他の学説等の評価が低下する筋合いのものではないし、まして、それによつて他の学説等を主張する者の名誉を毀損するなどということはあり得ないものというべきである。

この点に関する原告らの主張は、教科書検定の目的ないし性質についての誤つた見解に基づくものであり、失当というほかはない。

四 被告の主張に対する答弁

1 被告の主張1(本件検定処分の適法性)は、争う。

文部大臣による本件検定処分が「合理的な裁量判断」であり「検定基準に照らし許容し得る範囲」である旨の被告の主張は、根拠となるべき事実の主張を欠く抽象論であり、右判断が不合理かつ恣意的であることは明らかである。

2 被告の主張2(個別具体的法的義務の不存在)は、争う。

原告らは、原告らの法益である名誉そのものを侵害されたと主張しているのであつて、反射的利益の侵害を理由に損害賠償を請求しているのではない。また、被告が主張する反射的利益論は、行政の不作為の結果法益の侵害を招来した場合になす議論であり、行政の能動的、積極的作為に基づく場合に論ずべき主張ではない。本件は、文部大臣の検定行為という能動的、積極的作為に基づく直接的不法行為を根拠とするものであるから、被告の右主張は理由がない。

3 被告の主張3(損害の不存在)は、争う。

(一) 被告の主張3(一)及び(二)について

不法行為における精神的損害は、各誉毀損に限定されるものではない。人の主観的名誉感情を侵害するにとどまり、その人に対する社会的評価を別段低下させることのない行為も、人の精神的平安を害する行為として、あるいは場合によつては一種のプライバシー侵害行為として不法行為責任を成立せしめ得るのである。

そして、原告らは、名誉毀損以外の精神的損害を主張するものである。したがつて、名誉毀損に関する法理論を援用する被告の主張は当を得たものではないというべきである。

(二) 被告の主張3(三)について

学校教育法は、義務教育諸学校及び高等学校並びに盲学校等においては、文部大臣が検定した教科書を使用することを義務付けている(同法二一条一項、四〇条、五一条及び七六条)。したがつて、児童及び生徒は、自己の意思にかかわらず教科書を主たる教材として使用することを義務付けられており、このように使用を義務付ける効力は、公教育における国の権力的関与すなわち教育主体が被教育者に対して有する教育活動上の優位から生ずるのであつて、教科書のこのような資格は、図書一般が当然に有するものではない。教科書の検定は、申請に係る図書に対し、図書一般が有しないこのような資格を付与するものであるから、講学上の設権行為に属する。

右のとおり、検定済教科書には、図書一般が有しない右のような資格が付与される。すなわち、教科書検定は、それが直接の目的ではないにしても、結果として教科書の記述内容を権威あるものとする効果を生ずるのは自然の成行きである。したがつて、検定済教科書において原告らの主張する事実が採用されず、あるいは無視されることによつて、原告らが名誉感情を害されることもまた事実である。これは、制度の目的から導かれるものではなく、検定済教科書の有する資格から生ずる事実上の効果の結果である。そして、文部大臣は、設権行為を行う以上右の結果が生ずることを予測し、このような結果が生じないようにする義務を負うものといわなければならない。

第三  証拠<省略>

理由

一原告らは、文部大臣の本件検定処分を経て検定済教科書として公刊されている本件教科書の記述によつて著しい精神的苦痛を被つた旨主張し、国家賠償法一条一項の規定に基づき、それぞれ損害賠償として右精神的苦痛に対する慰謝料を請求するものである。

したがつて、原告らの右請求が認容されるためには、その前提として、まず第一に、原告らの主張する「精神的苦痛」の内容が、国家賠償法一条一項所定の損害、すなわち法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害に該当することを要するものというべきである。

そこで、以下、本件教科書について、北方領土問題関係、南京虐殺事件関係及び侵略関係の各記述ごとに、各原告の主張する「精神的苦痛」の内容を検討することとする。

なお、本件教科書の各記述の内容(別紙目録(二))については、いずれも当事者間に争いがないから、以下の検討に当たつては、右各記述の内容が別紙目録(二)記載のとおりであることを前提として、原告の各主張内容を検討することとする。

二北方領土問題関係の記述について

1  原告水津及び同菅野は、請求原因6(一)(2)において、本件教科書の北方領土問題関係の記述に関して、右記述は右原告両名の身命を賭した労苦を無視するものであつて、右原告両名に対する重大な侮辱であり、また、その名誉を毀損するものである旨主張する。

(一)  しかしながら、右教科書の記述は、その一部に第二次世界大戦終戦直後のソ連による千島列島への侵攻の事実について簡略に触れたものがあるだけで、右侵攻の際に右原告両名が所属した部隊やその遂行した戦闘行為等の詳細についてまでは何も言及しておらず、これらについて何らかの否定的評価を含むものではないから、右戦闘の関係者としての右原告両名に関する社会的評価に何ら影響を及ぼすものではない。したがつて、右記述によつて右原告両名の右関係者としての名誉が毀損されるということはあり得ないことというべきである。

(二)  また、原告らは「一種のプライバシー侵害行為」であるとも主張するが、右教科書の記述は何ら右原告両名の私生活上の事実に触れるものではないから、右記述につきプライバシーないしこれに準ずる法益の侵害の問題を生ずる余地のないことは明白である。

(三)  そうすると、右教科書の記述について右原告両名が名誉毀損以外の精神的損害として「重大な侮辱」等の表現の下に主張している趣旨は、要するに、ソ連による第二次世界大戦終戦直前の対日参戦及びこれに引き続く樺太、千島列島等への侵攻並びにその後の北方領土に対する占有等について、右原告両名は、これらをいずれも国際法に違反する不法かつ非道な行為であるとし、また、北方領土は今日もなお日本固有の領土であつて日本がこれに対する主権を放棄したことはないとする見解を抱き、これを広く訴える活動に従事しているものであるところ、本件教科書の各該当部分には、右原告両名の見解に沿つた記述が記載されていないか、又は右見解に反する記述が記載されているため、そのことについて多大な精神的苦痛を覚えるということに帰着するものということができる。

しかしながら、仮に右原告両名が右教科書の記述によつて右主張のとおり何らかの精神的苦痛を被つたとしても、それは、右原告らの請求原因事実自体からもうかがわれるように、一定の歴史的事象について、自己の見解が採用されず、あるいは、右見解に反する歴史上、政治上の所説が採用されたことに対する一種の不快感、焦燥感ないし憤りといつたものであるにすぎず、このような感情は、法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないと解すべきである。

2  原告水津は、請求原因6(一)(3)において、右教科書の記述は、同原告の著書等に対する評価を著しく低下させ、同原告の著述等を侮辱するものである旨主張する。

(一)  しかしながら、名誉毀損の対象として法的な保護を受ける名誉とは、人がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的名誉を指すものであつて、人が自己自身の人格的価値について有する主観的な評価、すなわち名誉感情は含まないと解するのが相当である。したがつて、不法行為としての名誉毀損が成立するためには、当該行為自体がその人自身の右のような社会的評価を低下させるものであることを要するものであり、単に結果として人の主観的名誉感情が害されたというだけでは名誉毀損には当たらない。したがつて、単に一定の歴史的事象に関して一個人の見解に反する記述が記載されたというにすぎず、右記述が右個人の見解ないし著作等については何ら批評を加えていない場合においては、当該記述の態様自体が右個人の前記のような人格的価値について批判をも含んでいるような場合は格別、かかる特段の事情のない限り、右記述は、右個人自身の人格的価値に関する社会的評価自体については何ら影響を及ぼすものではないから、仮に右記述によつて結果としてその者の主観的名誉感情が害されることがあつたとしても、これによつて名誉毀損が成立することはあり得ないというべきである。

本件教科書の記述は、同原告の主張自体からも明らかなように、単に一定の歴史的事象について同原告が正しいと信ずる見解につき記述を欠き、あるいはこれに反する見解に依拠しているというにすぎず、同原告個人の見解ないし著述等につき特段批評を加えるものではなく、また、同原告個人の人格等に対する批判を含むものでもないから、右教科書の記述につき同原告に対する名誉毀損の成立する余地はないものというべきである。

(二)  したがつて、同原告が自己の著書ないし著述等につき評価を低められたというのは、つまるところ、右1と同様、そこに表明された自己の見解が採用されず、あるいは右見解に反する所説が採用されたことに対する不快感、焦燥感ないし憤りといつた感情に帰着するものというべきであつて、かかる感情は、前述のとおり、法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないと解すべきである。

3  もつとも、右原告両名は、請求原因6(四)(検定済教科書の特殊性)において、検定済教科書は、文部大臣によつてその内容が児童及び生徒の教材として適切であると公認され、しかもその使用が法律上強制されることによつて、国家の権威を付与されて国民に供給されるものであるから、その世間に対する権威は絶大であり、その記述のもつ意味及びこれによつて右原告両名の被る精神的苦痛も重大であつて、他の一般の図書に記載された場合と同列には論じ得ない旨主張している。

(一)  しかしながら、教科書は、「小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において、教科課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書」(教科書の発行に関する臨時措置法二条一項)であるから、その性質上、児童及び生徒の平均的学習能力に対応してその紙数、分量並びに内容の詳しさ及び難易度等につき相当の制約が課せられることは避けられず、特に社会科、なかんずく歴史については、無限に存在する歴史的事象並びにこれらについて多岐に対立する諸学説及び諸見解のすべてを取り上げて逐一論評を加えるというようなことは到底不可能であることはいうまでもなく、むしろ記述し得る事象及び学説ないし見解はその中のごく一部にすぎず、その数及び分量が極めて限定されることは明らかである。したがつて、社会科、なかんずく歴史の教科書の編集及びこれに対する検定に当たつては、右のような歴史的事象及び諸学説、見解につき正に大幅な取捨選択の作業が必要とされることは当然の帰結というべきである。

このように、教科書の記述内容は、その性質上多大な制約の下に画定されるものであり、かかる制約をもたらす教科書の編集及び検定の意義、趣旨及び性質に照らすと、当該図書の執筆者又は検定申請者以外の第三者である一般の国民において、社会科教科書の歴史に関する記述中に、自己が正しいと信ずる学説ないし見解が採用されず、その結果、右学説ないし見解の根拠として重要と思料される一定の歴史的事象についての記述を欠き、あるいは右学説ないし見解に反する学説、見解が採用され、これにより精神的苦痛を覚えたと主張する場合に、常にその都度当該第三者である国民の各人すべてにつき国家賠償法上慰謝料をもつて救済すべき損害が発生するというような所論は、到底左袒し得ないところである。

(二)  したがつて、右原告両名が本件教科書の記述によつて被つた旨主張する精神的苦痛の内容は、結局、前記1及び2に述べたところと同様、一定の歴史的事象について、自己の見解が採用されず、あるいはこれに反する見解が採用されたことに対する不快感、焦燥感ないし憤りといつたものであるにすぎず、かかる感情が国家賠償法上慰謝料をもつて救済すべき損害に当たらないことは明らかであつて、このことは、右記述の存する当該図書が検定済教科書であるとの事実によつても、何ら結論を左右されるものではないというべきである。

4  以上のとおり、右原告両名の主張する「精神的苦痛」の内容は、いかなる意味においても、国家賠償法一条一項所定の損害、すなわち法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないものというべきである。

したがつて、右原告両名の本訴請求は、いずれも、その余の点について判断するまでもなく、その主張自体において失当というべきである。

三南京虐殺事件関係の記述について

1  原告田中は、請求原因6(二)(2)において、本件教科書の南京虐殺事件関係の記述によつて、南京虐殺事件は無根の事実である旨の著述、講演等の活動に従事してきた同原告に対する評価が甚だしく低下し、同原告は著しく名誉を害されるに至つた旨主張する。

(一)  しかしながら、既に述べたとおり、単に一定の歴史的事象に関して一個人の見解に反する記述が記載されたというにすぎず、右記述が右個人の見解ないし著作等については何ら批評を加えていない場合においては、当該記述の態様自体が右個人の人格的価値についての批判をも含んでいるような場合は格別、かかる特段の事情のない限り、右記述は、右個人自身の人格的価値に関する社会的評価自体については何ら影響を及ぼすものではないから、仮に右記述によつて結果としてその者の主観的名誉感情が害されることがあつたとしても、これによつて名誉毀損が成立することはあり得ないというべきである。

本件教科書の記述は、同原告の主張自体からも明らかなように、単に一定の歴史的事象について同原告の見解に反する所説に依拠しているというにすぎず、同原告個人の見解ないし著述等につき何ら批評を加えるものではなく、また、当然に何ら同原告個人の人格等に対する批判を含むものでもないから、右教科書の記述につき同原告に対する名誉毀損の成立する余地はないものというべきである。

(二)  そうすると、右教科書の記述について同原告が名誉毀損以外の精神的損害として「重大な侮辱」等の表現の下に主張している趣旨は、要するに、同原告はいわゆる南京虐殺事件は無根の事実であるとの見解を抱き、これを広く訴える活動に従事しているものであるところ、本件教科書には、同原告の右見解に反して、同事件が客観的史実として記述されているため、そのことについて多大な精神的苦痛を覚えるということに帰着するものということができる。

しかしながら、仮に同原告が右教科書の記述によつて右主張のとおり何らかの精神的苦痛を被つたとしても、それは、さきに述べたところと同様、同原告の請求原因事実自体からもうかがわれるように、一定の歴史的事象について、自己の見解に反する歴史上の所説が採用されたことに対する一種の不快感、焦燥感ないし憤りといつたものにすぎず、このような感情は、法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないと解すべきである。

2  原告畝本及び同西坂は、請求原因6(二)(3)において、右教科書の記述は、南京攻略戦及び南京占領に直接参加して戦攻による栄誉を受けた右原告両名の行動に対する重大な侮辱であつて、同原告らの被つた精神的苦痛は計り知れない旨主張する。

(一)  右教科書の記述が右原告両名の参加した日本軍全体の南京攻略戦及び南京占領時の行動について否定的評価を下すものであること自体は事実である。

しかしながら、不法行為としての名誉毀損が成立するためには、当該否定的評価の対象となる行為の主体、すなわち名誉の主体が当該摘示に係る事実(記述)自体から識別可能な程度に特定されていることが必要であり、かかる行為の主体につき単に漠然と極めて広範囲にわたる集団を示す表現をもつて摘示しているだけでは、右摘示に係る事実(記述)からは当該行為の主体を識別し特定することはできないため、右摘示の対象とされた集団に属する特定の個人に対する名誉毀損にはならないと解するのが相当である。

本件教科書の記述は、その摘示に係る「虐殺」行為の主体に関しては、特にこれを明記していないか、あるいは、「日本軍」ないし「日本兵」という極めて広範囲にわたる集団を示す表現によつて摘示しているにすぎず、右記述中に右原告両名の氏名が明示されていないことはいうまでもなく、「日本軍」ないし「日本兵」という表現についても、右集団は極めて広範囲にわたり余りにも漠然としているため、右摘示に係る事実(記述)自体からはこれに属していた右原告両名各個人を識別し特定することは不可能であり、ほかに右原告両名が右行為主体である集団に属していたことをうかがわせるような記述は何ら存しない。

したがつて、仮に右教科書の記述によつて右原告両名の主観的名誉感情が害されることがあつたとしても、それだけでは名誉毀損にはならず、また、右教科書の記述は、その摘示に係る行為の主体として右原告両名各個人を特定したものではない以上、右原告両名に対する関係において名誉毀損による不法行為が成立する余地はないものというべきである。

(二)  また、原告らは「一種のプライバシイー侵害行為」であるとも主張するが、右教科書の記述は何ら右原告両名の私生活上の事実に触れるものではないから、右記述につきプライバシーないしこれに準ずる法益の侵害の問題を生ずる余地のないことは明白である。

(三)  そうすると、右原告両名が右教科書の記述について名誉毀損以外の精神的損害として「重大な侮辱」等の表現の下に主張している趣旨は、前記原告田中と同様、要するに、右原告両名はいずれもいわゆる南京虐殺事件は無根の事実であるとの見解を抱き、原告畝本においては右見解を広く訴える活動に従事しているものであるところ、本件教科書には、右原告両名の右見解に反して、同事件が客観的史実として記述されているため、そのことによつて多大な精神的苦痛を覚えるということに帰着するものということができる。

しかしながら、仮に右原告両名が右教科書の記述によつて右主張のとおり何らかの精神的苦痛を被つたとしても、それは、右原告両名の請求原因事実自体からもうかがわれるように、一定の歴史的事象について、自己の見解に反する歴史上の所説が採用されたことに対する一種の不快感、焦燥感ないし憤りといつたものにすぎず、このような感情が法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害に当たらないことは、さきに述べたとおりである。

3  右原告ら三名は、原告水津及び同菅野と同様、請求原因6(四)(検定済教科書の特殊性)において、文部大臣の検定によつて検定済教科書に付与される権威の絶大さにかんがみるとその記述のもつ意味及びこれによつて右原告ら三名の被る精神的苦痛もまた重大であつて、他の一般の図書に記載された場合と同列には論じ得ない旨主張している。

しかしながら、教科書の記述の性質、すなわち教科書の編集及びこれに対する検定の意義、趣旨及び性質に照らすと、原告らが問題とする各記述の記載されている当該図書が検定済教科書であるとの事実によつても、右1及び2の結論が左右されるものではないことは、前記二3において詳述したところと全く同様である。

4  以上のとおり、右原告ら三名の主張する精神的苦痛の内容は、いかなる意味においても、国家賠償法一条一項所定の損害、すなわち法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないものというべきである。

したがつて、右原告ら三名の本訴請求は、いずれも、その余の点について判断するまでもなく、その主張自体において失当というべきである。

四侵略関係の記述について

1  原告木ノ下及び同伊勢は、請求原因6(三)(2)において、本件教科書が日本の満州事変以降の軍事行動について「侵略」の語をもつて記述していることによつて、職業軍人として満州事変以降の日本の軍事行動に直接参加して軍人としての相当の栄誉を授けられ、自らの戦歴及び軍歴ひいては日本の戦争行為自体につき多大な誇りと名誉を保持してきた右原告両名の名誉及び信用は完全に失墜し、その結果右原告両名は甚大な精神的苦痛を被つた旨主張する。

(一)  右教科書の記述が国家としての日本ないし右原告両名の参加した日本軍全体の満州事変以降の一連の軍事行動について否定的評価を下すものであること自体は事実である。

しかしながら、一定の記述について不法行為としての名誉毀損が成立するためには、当該記述が特定の個人の名誉を毀損する内容のものであることを要するところ、本件教科書の記述は、国家としての「日本」の一連の戦争行為に対する評価としてこれを「侵略」と称するものであつて、その構成員である特定の個人につきその個々の具体的行為を記述の対象としているものではないことは右記述自体から明らかである。

したがつて、仮に右教科書の記述によつて右原告両名の主観的名誉感情が害されることがあつたとしても、それだけでは名誉毀損にはならないことは前述のとおりであり、また、前記三2(一)において述べたところに照らしても、右記述が右原告両名各個人に対する関係において名誉毀損となる余地のないことは明らかであるというべきである。

(二)  また、原告らは「一種のプライバシー侵害行為」であるとも主張するが、右教科書の記述は何ら右原告両名の私生活上の事実に触れるものではないから、右記述につきプライバシーないしこれに準ずる法益の侵害の問題を生ずる余地のないことは明白である。

(三)  そうすると、右原告両名が右教科書の記述について名誉毀損以外の精神的損害として「重大な侮辱」等の表現の下に主張している趣旨は、要するに、右原告両名は日本の満州事変以降の一連の軍事行動を自国の権益保護及び安全保障のための自衛行為と解する見解を抱き、これを広く訴える活動に従事しているものであるところ、本件教科書はこれを「侵略」行為として記述しているため、そのことについて多大な精神的苦痛を覚えるということに帰着するものということができる。

しかしながら、仮に右原告両名が右教科書の記述によつて右主張のとおり何らかの精神的苦痛を被つたとしても、それは、他の原告らについて述べたところと同様、右原告両名の請求原因事実自体からもうかがわれるように、一定の歴史的事象について、自己の見解に反する歴史上の所説が採用されたことに対する一種の不快感、焦燥感ないし憤りといつたものにすぎず、このような感情は、法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないと解すべきである。

2  原告木ノ下は、請求原因6(三)(3)において、本件教科書の右「侵略」の記述によつて、昭和五六年度以前の検定済教科書に基づき満州事変以降の日本の軍事行動を自衛行為と評価してきた同原告の自説が公的に否定され、その結果同原告に対する評価は著しく低下し、同原告は甚大な精神的損害を被つた旨主張する。

(一)  しかしながら、既に述べたとおり、単に一定の歴史的事象に関して一個人の見解に反する記述が記載されたというにすぎず、右記述が右個人の見解ないし著作等については何ら批評を加えていない場合においては、当該記述の態様自体が右個人の人格的価値についての批判をも含んでいるような場合は格別、かかる特段の事情のない限り、右記述は、右個人の人格的価値に関する社会的評価自体については何ら影響を及ぼすものではないから、仮に右記述によつて結果としてその者の主観的名誉感情が害されることがあつたとしても、これによつて名誉毀損が成立することはあり得ないというべきである。

本件教科書の記述は、同原告の主張自体からも明らかなように、単に一定の歴史的事象について同原告の見解に反する所説に依拠しているというにすぎず、同原告個人の見解ないし著述等につき特段批評を加えるものではなく、また、同原告個人の人格等に対する批判を含むものでもないから、右教科書の記述につき同原告に対する名誉毀損の成立する余地はないものというべきである。

(二)  したがつて、右教科書の記述について同原告が名誉毀損以外の精神的損害として「重大な侮辱」等の表現の下に主張している趣旨は、前記1と同様、満州事変以降の日本の一連の軍事行動について同原告はこれを自衛行為と解する見解を抱き、これを広く訴える活動に従事してきたものであるところ、本件教科書はこれを「侵略」行為として記述しているため、そのことについて多大な精神的苦痛を覚えるということに帰着するものということができる。

しかしながら、前述のとおり、仮に右原告両名が右教科書の記述によつて右主張のとおり何らかの精神的苦痛を被つたとしても、それは、右原告両名の請求原因事実自体からもうかがわれるように、一定の歴史的事象について、自己の見解に反する歴史上の所説が採用されたことに対する一種の不快感、焦燥感ないし憤りといつたものにすぎず、このような感情は、法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないと解すべきである。

3  右原告両名は、他の原告らと同様6(四)(検定済教科書の特殊性)において、文部大臣の検定によつて検定済教科書に付与される権威の絶大さにかんがみるとその記述のもつ意味及びこれによつて右原告両名の被る精神的苦痛もまた重大であつて、他の一般の図書に記載された場合とは同列には論じ得ない旨主張している。

しかしながら、教科書の記述の性質、すなわち教科書の編集及びこれに対する検定の意義、趣旨及び性質に照らすと、右原告両名が問題とする各記述の記載されている当該図書が検定済教科書であるとの事実によつても、右1及び2の結論が何ら左右されるものではないことは、さきに詳述したところと全く同様である。

4  以上のとおり、右原告両名の主張する精神的苦痛の内容は、いかなる意味においても、国家賠償法一条一項所定の損害、すなわち法律上慰謝料の支払をもつて救済すべき損害には当たらないというべきである。

したがつて、右原告両名の本訴請求は、いずれも、その余の点について判断するまでもなく、その主張自体において失当というべきである。

五結論

右の次第で、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官新村正人 裁判官近藤崇晴 裁判官岩井伸晃)

別紙 検定済教科書目録(二)

目録

番号

区分

指摘箇所

(頁-行)

指摘部分の記述

1

二九二-二

中国は招かれず

二九二-五

ソ連など三か国は、アメリカの立場が強くでた条約草案に反対し

二九二-脚注②

千島の帰属については平和条約できめられず、北方領土問題として、日本とソ連との外交関係の重要問題として残された

二六九-八

日本軍は、子どもや婦人をふくむおびただしい数の住民を殺害し、ナンキン虐殺事件として世界の非難をあびた。

二六四-一

日本の中国侵略

二六五-一二

中国侵略の動き

二六五-一六

財閥や大企業のなかにも、中国侵略をすすめ

二六八-一

日中戦争のはじまり

2

二七三-六

八月八日にはソビエト連邦もヤルタの密約によって参戦し、日ソ中立条約を破棄して満州や南樺太などに攻めこんできた。ここにいたって、政府もついに降伏を決意し、ポツダム宣言を受諾するむねを連合国に伝え

二八八-六

アメリカは、長期にわたる日本占領で、反米感情の高まることを心配した。朝鮮戦争がおこると、日本を独立させ、西側につなぎとめておくことが有利と考え、日本との講和を急いだ。

二八八-一五

ソビエト連邦・ポーランド・チェコスロバキアは、講和条約に出席したが、アメリカの主導する条約案に反対して、調印しなかった。

二八九-四

この条約で、日本は、朝鮮の独立を認め、台湾・南樺太・千島列島などを放棄し

二六四-一五

このとき、多数の中国民衆が殺されたが、日本の国民には知らされなかった。

二六一-九

日本の中国侵略

二六一-一九

これを満州事変といい、このうち十五年にわたる日中戦争のはじまりとなった。

二六三-六

日中の全面戦争

二六三-八

日本の侵略に対して

二六三-一三

華北に移した

二六三-一五

全面的な侵略を開始すると

二六四-一

日華事変

二六五-一

泥沼の日中戦争

3

二六七-五

アメリカは、ヤルタ協定にもとづいてソ連の参戦する日が近づくと、戦後の日本でソ連に対して優位に立つためもあって、完成後まもない、原子爆弾を八月六日広島に、九日長崎に

二六七-九

そのあいだの八日には、日ソ中立条約は有効であったが、ソ連は、日本に宣戦し、満州に進撃してきた。これをみた日本政府は八月一四日ポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏し、翌一五日国民はそれを、天皇の録音放送で知らされた。こうして、満州事変の年から一五年にわたる戦争は終わり

二八三-六

サンフランシスコで五二か国による講和会議が開かれ、日本からは首相が出席した。会議はアメリカの条約草案を中心に進められ、ソ連などは反対したが、平和条約が結ばれた。

二八三-一〇

明治以来戦争によってひろげた領土のほか千島も放棄し

二八三-脚注③

わが国固有の領土である歯舞諸島・色丹島および国後・択捉島のこと。ソ連はヤルタ協定と平和条約でソ連領になったと主張し、日本はヤルタ協定に拘束されず、これらの島々は平和条約で放棄した千島にはふくまれないと主張している。

二五八-脚注②

占領の混乱時に、日本兵は女・子どもをふくむ多数の住民を殺した。

二五四-一

日本の中国侵略

二一六-一

日本の大陸侵略と

二一六-二

日本の大陸侵略

二一六-九

満州への侵略

二二四

全文

4

二六五-六

アメリカは、戦後の国際社会でソ連より優位に立つことも考え、ヤルタ協定の密約でソ連が対日戦に加わる二日前の一九四五年八月六日、広島市に世界で最初の原子爆弾を投下した。八日にはソ連が日本に宣戦を布告し、満州・朝鮮に侵入した。

二七九-二

サンフランシスコで対日講和会議が開かれた。会議には五一か国が出席し

二六六-七

このとき、日本軍は、武器を捨てた兵士や、女性、子どもまでを含めた多くの民衆を殺害した。この事件によって、日本は国際的な非難を受けた。

二五六-一

日本の中国侵略と軍部の政治への介入

二五六-脚注②

満州事変以来…この一連の戦争を十五年戦争ともよぶ。

二五八-一

ヨーロッパの動きと日中戦争

二五八-一六

日本軍と中国軍が衝突して日中戦争が始まり、戦争は華北から華中へ広まった。そこで国民政府は、それまで対立していた中国共産党と手を結び、日本の侵略に対抗した。

5

二七二-脚注①

この会談では、ドイツ降伏の三か月以内に、ソ連が対日参戦すること、そのかわり樺太・千島をソ連にひきわたすことなどが、秘密にとりきめられていた。

二七三-八

この間の八日には、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、ヤルタ協定にもとづいて日本に宣戦し、満州に攻めこんだ。

二六一-一

中国への侵略

二六三-八

日中戦争

二六三-一四

満州を支配下においた日本が、華北侵攻の動きを強めると、中国共産党は

二六四-一

蒋介石と内戦をやめることを約束したので、一九三七年には、抗日民族統一戦線が成立した。

二六四-一六

とくに中国共産党の指導する住民ぐるみのゲリラ戦術によって悩まされた華北では、たびたびその根拠地になっていた町や村をおそい、人々をみな殺しにし、あらゆるものをうばい、焼きはらうという作戦をおこなった。

6

二六一-八

また八日には、ソ連が日本に宣戦し、満州や樺太・千島を攻撃してきました。

二七七-八

講和会議には、中国はまねかれず、インド・ビルマは、条約案に不満で参加しませんでした。また、ソ連などは調印をことわりました。

二五二-脚注

日本軍は、ナンキンを占領したとき、武器をすてた中国軍兵士だけでなく、子どもや婦人をふくむ多数の民衆を殺害し、ナンキン虐殺事件として諸外国から非難されました。

二五〇-一六

この戦争は日本の侵略行為であって

二五二-付図

日本の中国侵略

二五二-一

日中戦争

二六一-一一

満州事変以来、一五年にわたる侵略戦争は終わりをつげました。

7

二八九-一〇

ソ連も八日、ヤルタ協定にもとづき、日ソ中立条約を無視して日本に宣戦し、満州に攻めこんできた。

三〇六-九

サンフランシスコ講和会議では、ソ連など三か国が、アメリカのつくった平和条約案に反対して、条約に調印しなかった。

二七七-脚注

※1 ナンキンを占領した日本軍は、数週間のあいだに、市街地の内外で多くの中国人を殺害した。その死者の数は、婦女子・子どもをふくむ一般市民だけで七-八万、武器を捨てた兵士をふくめると、二〇万以上ともいわれる。また、中国では、この殺害による犠牲者を、戦死者をふくめ、三〇万以上とみている。この事件は、ナンキン大虐殺として、諸外国から非難をあびたが、日本の一般の国民は、その事実を知らされなかった。

二六八-一四

世界恐慌と日本の中国侵略

二七五-一〇

中国は、このような日本の侵略を国際連盟にうったえた。

二七六-七

日中戦争

二七六-一一

共産党は、日本の侵略に対抗するため

8

一三五-五

第二次世界大戦に敗れるまで、台湾・南樺太・朝鮮などを植民地としていたが

二五七-一二

千島列島は、日本の領土であったが、第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約によって、南樺太などとともに領有する権利を放棄した。現在、国後島・択捉島・歯舞諸島・色丹島は、ソ連の支配下におかれている。

9

二七五-一九

第二次世界大戦後、日本は、サンフランシスコ平和条約によって千島列島を放棄し、現在は、ソビエト連邦が占領している。しかし、日本政府は、択捉島より南は、放棄した千島列島にはふくまれていないとして、その返還をせまっている。

10

二六九-一一

第二次世界大戦後、ソ連は日本の領土である歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島を占拠したままである。

11

八三-二〇

しかし、ソ連との間には、北方領土の帰属問題や

12

二三五-付図

13

二一二-七

ソ連とのあいだには…国後島や択捉島などの北方領土の帰属問題は、現在も解決されていない。

14

二六五-二

南京では、占領後のわずか数週間に、少なくとも一〇万を越える中国人婦女子や武器をすてた兵士に対して、暴行や虐殺をおこなったといわれる。

15

二八八-一八

捕虜・民衆などを大量に殺した(南京虐殺事件)。

二八九-一

二八五-九

日本の中国侵略

二八八-一五

日中戦争

二八九-一四

日中戦争

二九五-一一

フランスと日本の侵略に対するたたかい

16

三〇七-脚注①

占領のさい、日本軍はゲリラをふくむおびただしい数の中国人を虐殺し、世界に衝撃をあたえた(南京大虐殺)。

17

三三二-二一

中国に対する武力侵略にふみだした。

18

二一六-二八

日本の満州侵略を機に

二一六-脚注②

全文

二一七-九

満州国は事実上日本のかいらい政権であった。

19

三一一-三

日本の軍国主義と中国侵略

三一一-一四

本格的な中国侵略を開始した。

三一三-一

日中戦争

三一三-一五

この間ドイツとの提携にふみ切った日本は、一九三七年七月、蘆溝橋事件を機に、華北で軍事行動を拡大した。

20

二一〇-脚注①

陥落から一か月余りのあいだに南京とその周辺で、婦女子をふくむ住民七-八万人、捕虜もふくめると二〇万人以上といわれる大量の人びとを虐殺する事件(南京大虐殺事件)をひきおこしたため、

二〇九-一二

日中戦争

二〇九-一二

日本は満州を侵略して、

二〇九-一四

さらに華北への侵略をはかった。

別紙検定済教科書目録(一)<省略>

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